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Target*BoyTARGET6 -幼なじみ-(3)

長編小説『Target*Boy』の第六章の3です。

家出中の親友・雷波とストーカーの怪盗リオンのおかげで騒がしいくらいに賑やかな日々を送る夕凪。しかし夕凪を追いかけてやってきた幼なじみ・竜太の登場で平穏とは呼び難かった彼の日常が更に不穏へと転がり落ちる―――…

「顔見ただけでイッちゃうほど、忘れられませんでした?」

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 地面にしゃがみ込んで泣きじゃくる幼い夕凪に、一つ年下の少年はブンブンと威勢よく拳を振り回した。

「もう大丈夫だぞ夕凪! アイツら全員俺が追っ払ってやったから!」
「でも、竜太がケガしてる……」

 泣いている夕凪よりも少年…竜太の方がボロボロだ。何度も地面に転がされながら、数人の上級生相手に竜太は夕凪を守り続けたのだ。
 それを誇らしげに笑い、竜太は白い歯をニッと覗かせた。

「これは男の勲章だから、へっちゃらへっちゃら! 夕凪を守るのが俺の役目だからな」」
「ありがとう竜太」

 同じ空手教室に通っていた夕凪と竜太。その帰り道に突っかかって来るのは、決まって他校の上級生だった。そんな彼らから夕凪を守るのが竜太の役目だった。
 傷だらけになっても勇ましく立ち向かう竜太の姿が、夕凪にはとてもカッコよく映った。
 だから夕凪は年下の竜太にベッタリだった。何をするにも、どこへ行くにも、夕凪は竜太と一緒だった。 “兄弟みたいね”そう言われるのが嬉しかった。

 そして夕凪にはもう一人、慰めてくれる“兄弟”がいた。竜太の優しい兄…辰弥だ。

「夕凪、竜太!」
「お兄ーッ!」

 こちらに向かって駆けてくる辰弥に竜太が両手を上げて飛び跳ねる。
 辰弥は夕凪と竜太の送り迎え役だった。毎週二人を道場まで送り届け、帰りは必ず迎えに来てくれる。竜太と同じように面倒を見てくれる辰弥は、夕凪にとっても兄のように親しい存在だった。

「夕凪、また意地悪されたのか?」

 泣いている様子の夕凪を見つけ、辰弥が心配そうに腰を落とした。夕凪は涙をゴシゴシ拭いながらそれに頷く。

「そうか…怖かっただろ」
「大丈夫だよ、お兄! 俺が追っ払ってやったんだから!」

 慰めるように夕凪の頭を撫でる辰弥の腕を竜太がグイッと引っ張った。
 そんな竜太の姿を見て辰弥は目を瞠る。

「お前、傷だらけじゃないか」

 そしてポケットからハンカチを取り出し、汚れた竜太の顔を擦った。

「……、平気だってば!」
「何だよ、カッコつけ」

 竜太は辰弥の手を恥ずかしそうに振り払ったが、辰弥はお構いなしに竜太の顔に手を伸ばす。態度や言葉遣いこそ乱暴であるが、優しいじゃれ合いだ。
 兄弟のいない夕凪にとって、この二人といる時間は心地がよかった。自分にも兄弟ができたような錯覚さえしていた。

「夕凪、膝擦り剥けちゃってるな。ほら、オンブしてやる」
「あー、ズリィよお兄っ! 俺もーっ!」
「ばーか竜太。お兄ちゃんの体力なめんなよ? 二人もオンブは無理だ」
「違う! 俺も夕凪をオンブするんだ!」
「ヤーだね。悔しかったら奪ってみれば」

 ひょいっと夕凪を担ぎあげて辰弥が見下ろすと、竜太は悔しそうに拳を振り上げた。

「くっそー、いつか絶対お兄よりデカくなってやるからな!」

 竜太の威勢のいい声が響く。

 そんな温かい関係が、ずっと続くと思っていた。
 実の兄弟じゃないけれど、兄弟のように三人で一緒にいられるのだと―――……


 あんな風に、世界が転がってしまうまでは……

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***




 バチン―――ッ!
 薄暗い部屋に痛々しい音が響く。

「夕凪……、母さんに何を言おうとした?」

 目の前にいるのは、兄と慕ってきた少年の顔とは全くの別モノだった。目の下はくぼみ、顔面には常に神経質そうな表情が浮かんでいる。

「ご…ごめんなさい」

 頬を叩かれた勢いでベッドに倒れ込んだ夕凪を、辰弥は凍るような目つきで見下ろした。

「告げ口しようとしたのか?」

 苛立てば夕凪に手を上げる。何度もこうして鈍い痛みが夕凪の頬を打った。
 だから夕凪は助けを求めて、縋るような思いで辰弥の母親に告白したのだ。この悪夢から逃れたい、その一心で。

「ごめんなさいっ!」

 しかし、あと一歩の所で辰弥に見つかってしまった。
辰弥は持ち前の優等生顔で母親を上手く丸め込み、怯える夕凪を半ば強引に部屋に連れて帰った。
 つまり、夕凪にとっては状況悪化。夕凪の反抗は却って辰弥を逆上させてしまった。
 周りの目を盗んでは、更なる責め苦が夕凪を襲うようになったのだ。

「ごめんなさい、もうおばさんに言ったりしないから……」

 必死の懇願が始まる。
 そんな夕凪を見ても、辰弥が以前の優しい笑顔を見せることはなかった。


「なら、今日はお兄ちゃんのこと三回気持ちよくしてくれたら許してやる」

 また、あの悍ましい行為が始まる……夕凪の表情がこれまでにないほど強張った。

「できるよな?」
「……できない…っ」

 辰弥に言われるままに従い、その熱を吐き出させる。その行為の意味さえわからない夕凪にとって、それは恐ろしい儀式のように思えた。

「辰兄…ごめんなさい、ゆるして…」

 許して……何度そう懇願しても、差し伸べられるのは優しい救いの手ではなく、
 バチン―――…‥ッ!
 夕凪の頬に真っ赤な跡を残す大きな手の平だけ。

「口答えするな! ……だったら夕凪、お前がお兄ちゃんに恥ずかしいとこ見せてくれるか?」

 怯えて固まる夕凪の洋服を、辰弥が乱暴に脱がそうとした。

「やだっ! ヤメテ……辰兄のこと気持ちよくするから……」

 逃げても逃げても、この魔物は夕凪を追いかけて来た。
 故意に避ければ家まで迎えに来てもっとヒドイことをする。
 誰にも気付かれないように、不審がられないように、夕凪はその恐ろしい秘密を小さな胸に隠し続けた。



「ごめんな…夕凪……、ごめんな?」

 そしてヒドく乱暴なことをした後は、決まって辰弥は子供のように泣きじゃくった。夕凪が何度泣いて助けをせがんでも許してはくれなかったくせに、まるで憑き物が落ちたように今度は許しを請う。

「夕凪しかいないんだ……」

 自分よりも小さな体を抱きしめて見捨てないでと縋りつく。

「夕凪がいなくなったら、俺……生きていけない」

 そんな風に助けを求められて、幼い夕凪がそれを拒むことなどできるはずもなかった。
 ただ、黙って耐えることでしか彼を救えないことを暗黙の内に理解してしまった。

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 テレッテッテテテレレレーー♪
 放課後の教室の見慣れた風景。クラスメイトの佐智子が夕凪の長い髪をいじり、夕凪は大人しく自分の髪型が変わっていく様を卓上に置かれた佐智子の手鏡越しに見つめている。
 そこに響く軽快な着信音。ペッパー警部のイントロは、佐智子の携帯のアラーム音だ。

「やばっ、もうこんな時間!」
「バイト?」
「うん、夕凪ごめんね」

 忙しなく帰り支度を始める佐智子を見て夕凪の眉が無意識に下がった。賑やかな時間がひとつ終わってしまうのだ。これまで何度も味わった“寂しい”という感情が意識するよりも先に体にじんわりと広がった。
 そんな夕凪に、佐智子がにこりと微笑みかける。

「もうすぐ雷波が来るでしょ」

 心配しなくてもその不安を埋めてくれる人物はすぐにやって来る。佐智子は少し赤みの差した夕凪の柔らかい頬をぷくりと人差し指で突き、ちょんちょんと機嫌を窺うように弾かせた。

 佐智子の所属する演劇部は公演のない期間には週に数回集まる程度なので、それ以外の放課後を佐智子はこうして夕凪と過ごすことが多い。バイトまでの時間を夕凪の髪をいじって潰すのだ。佐智子にとって髪いじりは夕凪と一緒にいる口実であったが、夕凪にとっても、この時間は親友の部活が終わるのを待つのに退屈しないで済んだ。

「別に俺、大丈夫だよ」

 佐智子に突かれた頬をゴシゴシと手の甲で擦り、子供扱いするなと息巻いてみせるが、そんな強がりも佐智子は承知。だからウインクで答えるのだ。

「また、明日ね」

 明日の約束を残して教室を後にした。

「大丈夫だってば」

 自分はそんなに寂しそうな顔をしてしまっただろうか。
 情けないな。昨日から気持ちのコントロールが上手くいかなくて、果たして今日笑っていた笑顔さえも笑顔だったか自信がない。

「大丈夫……」

 そう言い切れる自信もなくなってしまった。
 夕凪は佐智子に結ってもらった器用な編み込みを外し、机に突っ伏した。せっかく佐智子に整えてもらった髪型だが、そのままの髪型で雷波と歩けば雷波の彼女に間違えられるか、そうでなくても雷波にからかわれるのがオチだ。自己防衛の先手を打って、いつもと変わらない日常を迎える準備を整える。

「しっかりしろよ……俺っ」

 口に出して自らを叱咤してみるが、不気味に静まり返った教室の無音は夕凪の不安を却って煽るだけだった。
 早く誰かの声が聞きたい。

「雷波、早く来ないかな……」

 このモヤモヤも、雷波の声を聞けば落ち着くはず。心が安心を求めて親友を呼んだ。
 チラリと時計を見れば、そろそろ部活が終わると針が教えてくれた。
 早く、この不安を拭い去りたい。相棒に会えば、また自分を取り戻せるはずだから……


 ガラガラ―――…

 教室の後ろのドアが開く。

「雷波!?」

 夕凪は飛び起きるように振り返った。この時間、この教室に親友以外の人物が来ることなど想像もしていなかったのだ。
 だが、振り返った瞬間、夕凪は一気に無酸素の空間に放り出されたような気分になった。
 肌寒い季節に似合わないジワリと滲む汗。

「竜…太……」

 心臓が大きな音を立てて暴れ始めた。

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「お久しぶりです、鷹森センパイ」

 “ セ ン パ イ ”意思を持ってそう吐き出された言葉が夕凪の動悸をさらに煽った。心臓が肺を圧迫して、息が苦しい。自分でも血の気が引いていくのをハッキリと感じた。

「心配してたんですよ。昨日、大丈夫でした?」

 細められた目と笑いを浮かべた口元は好意的なものにも見えた。だが、その笑顔の裏にあるのは確かに攻撃的な色。
 蛇に睨まれた蛙―――…目の前にいる天敵に足がすくみ動けない姿は、今の夕凪そのものだった。

「具合はどうですか?」

 近づいてくる恐怖の気配に、夕凪は一歩後ろに足を引く。

「……寝不足だっただけだから」
「へぇ、寝不足?」

 じわり…、じわり…、覗き込むように首を傾げて夕凪をまじまじと見つめ、竜太がその距離を縮める。もともと窓際の席にいた夕凪は、すぐに壁に退路を奪われてしまった。

「ねえ。じゃあ、どうしてこんなに震えてんの?」

 グイッと竜太に掴まれた手首は、竜太の手をも道連れに小刻みな微動を繰り返す。
 竜太の指が夕凪の細い手首にグッと食い込んだ。

「痛い、竜太……」
「逃げるからだろ? 久しぶりに会えたのに、なんでそんな顔すんの?」

 ハッと顔を上げた夕凪の両目が大きく見開かれた。そして突き刺さるような強い視線に繋ぎとめられ、今度は逸らすことができない。
 みるみる大きな双眸に涙が浮かび始めた。

「俺のこと……覚えててくれたんでしょ?」

 確信を持った問い掛け。
 震える唇が答えを発するには助けが必要だった。しかしそれを補う体の機能が何も作動しない。今は全身がバラバラのようだ。

「だから昨日、あんなになっちゃったんですよねぇ? セーンパイ?」

 スッと細められた竜太の目は引き金のように夕凪の涙を誘引した。怯える目から力なく零れる涙。

「顔見ただけでイッちゃうほど、忘れられませんでした?」

 頬を滑る夕凪の涙を指で拭い、竜太はニヤリと口角を上げる。

「それとも……忘れらんなかったのは、あんなことした兄の方かなぁ?」

 顎を掴んで上を向かされた夕凪の目に歪んで映るのは、あの日の冷えるような嘲笑。


「夕凪……お兄ちゃんのこと、気持ちよくしてくれる?」

 辰…兄………

 恐怖で竦んだ足が、ついに力を失くした。立っていることができない。ぐらぐらと床がたわむ感覚に、夕凪はガクンと膝を落とした。

「おっと…気をつけて下さいよ、センパイ」

 細身の割に逞しく筋肉の付いた胸板で夕凪を受け止め、竜太は夕凪の体をそのまま窓に預けた。
 押さえつける格好で密着する体と体。一層近くなった距離から脱そうという抵抗の意思はあるのに、脱力した足では竜太の支えがなければ立っていることすらままならない。ガンガンと打ちつける鈍痛を訴える頭は、言葉を発する余裕すらない。

「髪……伸ばしたんだね…」

 さらりと髪を梳かれる仕草には嫌悪さえ覚える。なのに、イヤだという意思が形を成さない。

「懐かしいな、……あい先生。」

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 あい先生―――…‥
 そう綴った唇の残像が目に焼き付く。

「センパイ、大好きでしたもんね? あい先生のこと」

 竜太の発する不可解な言葉はどれも何ひとつ頭に入ってこないのに、その音は確実に夕凪の記憶を揺さぶり始めていた。

「覚えてます? 忘れるはずないですよね? だからこんな風に髪、伸ばしてるんですよね」

 柔らかく流れる夕凪の髪を指に絡めて、恭しく唇を寄せる竜太。

「すごく似合う」

 嬉しそうに目を細める竜太の前で、夕凪はただ顔を歪めることしかできなかった。

「それにしても…、泣き虫は相変わらずかぁ」

 少し大人びたが、昔の面影は大いに残っている。昔と変わらない泣き顔……竜太は懐かしむように夕凪の頬を撫でた。涙で濡れてしまったが、昔と変わらず触り心地のいい滑らかな肌だった。

「でも、あんま可愛い顔で泣いてると、意地悪したくなっちゃうでしょ……」

 ねぇ、ユ ウ ナ ギ ……
 耳元で囁かれた声が、バチリと火花を散らして脳裏に弾けた。

「いやだ…来ない…で…」

 冷たい指先以上に震える声が、かろうじて紡がれる。

「何で逃げるんですか? 思い出話しましょうよ、せっかく久しぶりに再会できたんだから」

 ニヤリと歪んだ薄ら笑いを張り付けたまま近づく竜太の唇が、青褪めた夕凪の頬に熱い息を吹きかける。粟立った頬の産毛までもが恐怖に震えた気がした。

「二人の共通の記憶……新しい所から遡っていきましょうか。まずは、あい先生が学校を辞めた所から……ね」

 催眠術のような竜太の言葉と共に記憶が遡る。

「夕凪の大好きな大好きなあい先生。急に学校を辞めちゃうから皆ビックリしてたっけ。……あれ? でも、何であい先生が学校辞めなきゃいけなかったんでしたっけ?」

 低く囁き問い掛ける声が、次第に記憶の中の人物と重なっていく。

「ねえ、夕凪……答えて?」

 それは夕凪が錯覚するには充分すぎる虚像。

「夕凪……」

 だから鮮明にフラッシュバックしてしまったのだ。自分が“17歳の鷹森夕凪”ではいられないほどに……

「夕凪の所為だよね…」

 黒い影と共に過去が囁いた。

「いやだあっ…、ごめんなさい……っ、ごめんなさい、辰兄…!」
「謝ったって許さないよ、夕凪。だって夕凪は悪い子なんだから……」

 既に真っ赤に濡れた大きな双眸からは涙が止まらない。次第に呼吸は苦しそうに音を立て、混乱した頭が割れそうなほど激しい痛みを訴えている。

「ごめんなさい……ごめんなさい…ぃ」
「夕凪が悪い子だって知ったら、皆どう思うだろうね」
「はぁ…はぁ……ハァ…」

 心臓がドクドクと乱暴に暴れまわる。息を吐き出すことはできるのに、吸い込むことができない。
 息が……出来ない!
 頭の中で誰かの囁く声が幾重にも反響する。誰の声かはわからない。何を話しているのかもわからない。ただはっきりと聞こえるのは、言葉が口を抜ける音。気持ち悪い。

「覚えてる、夕凪? あんたに何があったか知った時の皆の反応。皆の目」

 黒い影に白い眼光が浮かび上がった。空っぽの目玉で夕凪を見つめている。底冷えするような冷たい目だ。

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「あの子が原因みたいよ…」
「アレが噂の…」

 黒い影が口々に囁く。
 ふと鮮明になる音声。聞こえてきたのは、大人たちの好奇と軽蔑の囁きだった。そして突きつけられたクラスメイトたちの言葉。

「夕凪くんとはもう喋っちゃダメなんだって」
「近づいたらバイキンが移るって」

 暗く無機質な空間に足を縫い留められたように、去っていく友達を追いかけることも、不躾な言動から逃げることもできなかった。

「皆、あんたから離れていったんだよね。あい先生も……」

 暗闇に佇む夕凪に手を伸ばしてくれる者はいなかった。いつだって助けに来てくれた、あい先生でさえ。
 その理由を知ったのは間もなくだった。クラスメイトが教えてくれた。

「あい先生は夕凪くんのせいで学校辞めちゃったんだって」

 “夕凪くんのせい”
 あい先生が姿を消してしまったのは夕凪の所為。皆の大好きだったあい先生を退職に追い込んでしまったのは……

「“僕”の…せい…だ……」

 ハッキリと思い出した、嫌悪するほどの真っ黒な記憶。

「そう、夕凪の所為だよ。だから夕凪は独りぼっちになったんだ」

 独りぼっち。周りには誰もいない。助けてくれた先生も……

「独りは辛いよね……寂しいよね…」

 微かに笑いを含んだ声が、夕凪の脳を大きくぐらつかせる。

「いやっ…、いやだあ…」

 独りはいやだ……嫌われたくない……

「だから夕凪、俺が傍にいてあげる」

 強く腕を引かれ、夕凪の体がポテっと竜太の胸に浅くバウンドした。それを離すまいと力を籠めた竜太の腕の中に、夕凪は すっぽりと収まってしまう。

「今度こそ、俺が夕凪を守るから…」

 小さな体で威勢を張って、無謀に拳を振り回してくれたあの頃とは違う。大きく、頼もしい体。

「強くなったんだ俺……、俺さ…、」

 言いかけて竜太は言葉を止めた。
 治まることのない夕凪の震えを全身で感じてしまったからだ。
 苦しそうに喘ぐ夕凪の耳には自分の声が届いていないことを悟った。

「今日は止す」

 夕凪の肩を掴んで体を離した。
 すると、夕凪が怯えるように竜太を見上げた。その瞳からは驚きと共に安堵の色が窺える。

「俺が何かすると思った?」

 きっと辰弥なら“そうした”のだろう。夕凪を抱きしめて、優しい言葉を吐いて、恐ろしくヒドいことをする。けれど……

「俺は辰兄じゃない」

 スッと横目で夕凪を振り切り、竜太は静かに立ち上がった。


 ――…ラリロラリロラリロラリロ♪

「ラリロラリロラー♪ ……おっつーわりぃわりぃ、お待っとーさん……って、あれ? どちらさん?」

 静まり返った空間に場違いな鼻歌が響いた。
 ガニ股で意気揚々と教室に入ってきたのは、部活から戻ってきた雷波だ。
 居ると思っていた人物の代わりにそこに立つ少年に、雷波は眉を寄せて怪訝な顔を見せた。少年の神妙な視線も気になった。

「どうも……」

 浅く頭を下げ、竜太が雷波の横を通り過ぎようとする。その後ろにペタリと床に座り込んで一点を見つめる夕凪の姿を見つけた。
 重たい空気が暗に語るのは少年の正体。

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「なるほどね。君が……竜太くん?」
「そーですけど」

 やはり、雷波の勘は的中した。この少年こそが夕凪を闇に陥れた“辰兄”の弟―――…‥かつての夕凪の親友なのだ。

「鷹森センパイに聞いたんですか? 俺のこと」

 怯える夕凪を背後に、涼しい顔で雷波に向き合う竜太。やや挑戦的とも取れる視線だった。

「まあね」

 それを受け止める雷波もまた余裕のある表情で応じる。
 すると竜太の顔にスッと陰が落ちた。

「どこまで?」
「まあ、あらすじ程度には」

 早々に切り上げようと溜め息で言外に訴える雷波に対し、竜太は納得のいかない様子で眉を寄せた。
 確かにこれ以上話しても楽しい話ではない。しかし、自分と夕凪以外の人間がその秘密を知っていることに竜太は驚いた。

「へえ、話したんだ? 意外」

 竜太が少し囁いただけでもフラッシュバックしてしまうほど恐怖に囚われている夕凪が、自らそれを他人に話したというのだ。俄には信じられなかった。

「おかげでスゲー後遺症なの」
「みたいですね」

 お互い涼しい顔を通す雷波と竜太。
 腹の探り合いなんかではない。これは相手を牽制して夕凪から遠ざけようとする静かな攻防戦。

「だから俺が責任を取りに来たんです」

 先に仕掛けたのは竜太だった。
 夕凪の傍にいるべきは自分なのだ、と雷波に鋭い視線を投げつけた。

「責任?」
「はい。兄がこの人に付けた深い傷の責任です。俺なら夕凪を守れます。夕凪の痛みもわかる、夕凪のために強くなったんです」

 強く、雷波に向けた宣戦布告。
 だが、雷波から返ってきたのは気のない溜め息だった。

「責任ねぇ……最近その言葉よく聞くけど、何かピンと来ねーんだわ。だって俺お前のこと信用してねーし」

竜太の横をスタスタと通り過ぎて、雷波は夕凪の前にしゃがみ込んだ。そして自分のジャージを夕凪の肩に掛けてやる。

「悪かったな夕凪、大丈夫か?」

 涙で腫れた夕凪の目尻に雷波が優しく触れると、それまで曇った瞳で一点を見つめていた双眸に光が差して、潤んだ瞳が意思を持って揺れ動いた。

「雷波……」
「そう、雷波」

 その様子に雷波もホッと息を吐く。
 しかし竜太は苦い顔をした。当然だ。自分は怯えさせることしかできなかったどころか、夕凪に“竜太”として認識してもらうことすらできなかったのだから。
 竜太は悔しそうに舌打ちを残し、二人から背を向けた。そのまま教室を後にするつもりだった。だがこのままでは気が治まらない。まるで自分の敗北を認めるようで、プライドがそれを許さなかった。
 竜太は教室の入り口まで来ると、思い立ったように振り返った。

「……センパイ、あんたどうやって夕凪をそこまで手懐けたんです?」
「手懐けた?」
「手懐けたでしょう。だってその人……そんな飼い犬みたいな目であんたのこと見上げて」
「んーじゃあまあ強いて言うなら、愛の力? ……なんつって」

 おどけた仕草で雷波が肩を竦めた。

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 ギロリ…鋭い眼光が返ってくるのは百も承知。そんなことで狼狽えたりしない。今は夕凪から竜太を遠ざけることができればそれで充分なのだ。真面目にぶつかり合って状況を長引かせるつもりは毛頭なかった。

「冗談だよ」

 雷波は苦笑いで両手を上げ、竜太の睨みを往なした。

「わかってます。随分と面白いことを言うんですね」

 面白いだなんてちっとも思ってなさそうな顔で竜太が頬を引き攣らせた。

「まあ手懐けちゃいねーけど、俺の方は完全にコイツに餌付けされちゃってるからなー」

 ぼそりと意味深な言葉を続ける雷波に竜太の表情がますます険しくなる。

「確かに、食い意地汚そうですもんねセンパイ」
「えっ、俺ってそう見える?」
「ええ、人のモノにまで手を出しそう」

 一瞬心外そうな顔をした雷波だったが、含みのある言い方をした竜太の言葉に、ああなるほど…と裏を察したように笑った。

「そんなに取られたくないんなら、ちゃんと名前付けとけば?」

 そう言って、雷波が竜太に示したのは夕凪に着せた自分のジャージ。胸元に“池澤”の刺繍が入っている。
 瞬間、竜太の顔が怒りでカアッと赤く染まった。

「あー…一応言っとくけど、俺のモノって言ったのはこのジャージのことな」

 夕凪のことだなんて言っていないから、と雷波は笑って付け足す。
 完全にバカにされているようで、竜太は奥歯を噛み締めた。しかし竜太は敢えて口を噤んだ。そして努めてにっこりと微笑む。

「覚えておきます」

 確実に灯ったであろう怒りの火を押し留め、竜太は穏便に身を引いた。ここで手の内を全て見せるのは賢くないと判断したのだ。

「今日は帰ります。もともと長期戦も覚悟してたんで」
「長期戦?」
「じゃあ、今後ともよろしくお願いしますね、センパイ」
「あのさぁ、いったい誰と戦うっつーんだよ、お前」

 ポツリと苦い表情で吐き出した雷波に、竜太は再び曇った顔をした。

「……。あんたをその場から引きずり下ろしてやる」

 はっきりと突きつけられる敵意。

「やーん、お手柔らかにねー」

 物騒な後輩からの挨拶に、雷波は皮肉めいた笑みを浮かべた。
 帰れ、強く念じた言葉を眼光にちらつかせて……。



「大丈夫か? 夕凪…」

 そして去っていく後輩の後ろ姿を最後まで見送らず、雷波はすぐに親友に駆け寄った。

「ふぇぇ…っぅ」

 肩に触れた雷波の手に導かれたように、夕凪の涙が堰を切る。
 止めどなく溢れるその涙と止まらない震えは、それまでの絶望的な恐怖を物語っていた。

「悪かったな、今日はさっこたちが居るんだと思って……」

 だが言葉が続かない。また自分が出遅れた所為で夕凪を泣かせてしまったのだ。
 ここのところ、夕凪は泣いてばかりだ。

「うっ…うぅーっ」

 雷波がそうして手を拱いている間にも、夕凪は苦しそうに胸を押さえ、発作を起こしたように泣きじゃくる。

「おいっ…どうした?」

 これまでも何度も夕凪の涙には立ち会ってきたのに、雷波はどうしたらいいのかわからなかった。苦しそうに喘ぐ親友に何もしてやれない。そんな自分に酷く惨めな気持ちになった。

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「……っ、ごめんなさ…、ごめんなさい…」

 ハッと息を呑み、夕凪が怯えた目で雷波を見上げた。
 雷波の表情を読みとったのか、困らせてしまったと察したのだろう。

「ごめんなさいっ!」

 戸惑う雷波の体に、夕凪が震える腕で抱きついてきた。

「ごめんなさい、……泣かないで?」

 眉を寄せる雷波の頬に夕凪の冷たい指先が触れた。

 泣かないで、だって? 泣いているのはどっちだ。不可解なことを言う夕凪に雷波は更に眉を寄せる。

「泣かないで……お願い、俺、いい子にしてるから……」

 包み込むように寄せられた手は、雷波を慰めようとしているようだ。
 次の瞬間、夕凪が取った行動に雷波は飛び退いた。ごめんなさい…そう何度も謝りながら、触れるような口付けが当てられたのだ。

「夕凪? どうしたんだよ……」

 明らかにいつもの夕凪じゃない。いくら様子がおかしいとはいえ、こんな夕凪は見たことがなかった。
 雷波の血の気がサーッと引いていく。

「ごめんなさい、お兄ちゃん…っ」

 夕凪の目に映っているのは、自分じゃない――…‥

「泣かないで、辰兄……」

 何が原因かはわからないが、夕凪は雷波を辰弥を重ね合わせているのだ。
 まただ―――…。雷波の胸に鋭い痛みが走る。
 またお前は俺を見ないのか?

「夕凪ッ!」

 ジタバタともがく夕凪を腕の中に閉じ込めた。

「やっ……やだぁっ、」
「夕凪、落ち着けっ!」
「やだっ、いい子にしてるからヒドいことしないでっ!」
「落ち着け、夕凪」

 夕凪の耳元にシーッシーッと訴えかける。黙れ、俺の声を聞け……、優しく優しく唱えて聞かせる。すると暴れていた夕凪からゆっくりと力が抜けていった。雷波の吐き出す息に合わせて夕凪が大人しくなっていく。そんな夕凪の頭を胸に抱き寄せ、雷波は自分の心臓に夕凪の耳を押し当てた。

「聞こえるか?」

 掠れた声で問いかける。

 とくん、とくん…、

「俺がわかるか?」

 すっかり脱力した夕凪の体が雷波に寄りかかる。

「俺がわかるか?」

 雷波はもう一度同じ問いを繰り返した。小さく顎が上下するのを確認する。

「雷波……、ごめんっ」
「そんで、また泣くのかよ」

 これではまた振り出しだ。泣いて泣いてその涙が止まることなんてなかったのに、夕凪はまだ泣くのだ。涙の出所は底なしの湖だろうか。



「……そろそろ泣き止めば?」

 しばらく夕凪の好きにさせていた雷波だったが、下校を促すチャイムが鳴ったのを聞いて夕凪の背中を叩いた。
 しかし体を離そうとした雷波に、夕凪はひっしとしがみつく。

「っっ…うーっ…」

 言葉にならない嗚咽を解するなら、「いやだ、行かないで」だろうか。

「……わかったよ」

 決意の溜め息と共に、雷波はもう一度夕凪を抱き寄せると、荷物でも持ち上げるようにふわりと夕凪を肩に担いだ。

「っ…ぇ、なに?」
「イイ子にするんだろ?」

 不安がる夕凪を余所に、雷波は夕凪を担いだまま教室を後にした。

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「失礼しまーす」

 ガラガラと白いドアを開けて雷波が辿り着いた場所を認識すると、突然夕凪が暴れ始めた。

「やだ! 雷波ぁ……っ…オレ、ここ、いやだぁっ!」
「うるせえ、俺が一緒に居んだろ?」

 バタバタと腹を蹴る夕凪の足を押さえつけ、雷波はよっこいしょと夕凪を担ぎ直す。

「うっうっ…」

 離されまいと夕凪が必死に雷波の背中にしがみついた。その涙で濡らされたシャツの背中が熱いやら冷たいやら。

「そんなにしがみつかなくたって置いてったりしねーよ」

 夕凪がそこまで嫌がる場所。雷波だって来たくはなかった。だけどここしか思い当たらなかったのだ。


「どうしたんだい?」

 白衣を纏って立ち上がったその男は、細いフレームの眼鏡の奧を驚きに見開いて固まっていた。

「ベッド借りる」

 そんな成瀬に構わず、雷波は部屋の奥へと真っ直ぐに歩みを進める。
 ここは保健室。危険な狼の根城だ。近付いてはいけないと自ら夕凪に忠告したその場所であった。
 だがその狼も不意を突かれて、今はただただ瞬きを繰り返すだけ。

「えっ……ちょっと待って、どういうことだい?」
「下校の時間過ぎたら誰か教員が一緒にいねえとまずいんだろ?」

 本当なら豪樹の居る美術準備室に連れて行きたかったが、生憎今日に限って豪樹は出張中なのだ。かと言ってこの状態で夕凪を連れ回すのは人目について困難なため、最短で辿り着けるこの場所を選ぶ他なかった。

「さっぱり意味がわからないんだけど……」

 胡乱な顔つきで眉を寄せる成瀬に、雷波は面倒臭そうに大きく舌打ちをした。

「コイツがこんなんだから帰れねーの」

 グイッと雷波が背を向けると、雷波の肩に担がれたまま背中に顔を埋めていた夕凪が成瀬の前に晒された。
 すると、それまで驚いていた成瀬が一層目を丸くして息を飲んだ。

「ふえぇ……やだぁ、雷波っ、雷波ぁっ!」

 成瀬に覗き込まれた夕凪が逃げるのはもちろん雷波の背中。助けを求めるように、更に顔を押し付けて成瀬から逃れようともがいていた。

「おやおや、まるで子供だね」

 見知らぬ人に驚いた子供が父親に縋りつくように、雷波から離れたがらない夕凪を見て成瀬は興味深そうに目を光らせた。

「やだっ、怖いぃっ!」

 覗き込む成瀬から少しでも遠ざかろうと雷波にしがみついて暴れる夕凪。

「……怖い?」

 成瀬は面を食らった。
 実際これまで成瀬は夕凪に対して充分酷いことをしてきたのだから、避けられるのは仕方ない。しかし頭ではそうわかっていても、ここまであからさまな態度を取られると少なからずショックではあった。

「何、センセー自分の顔がハンサムだとでも思ってた? あでででで、暴れるな夕凪ッ!」
「そうだね。多少の驕りはあったけど……少なくとも僕は優しい顔立ちをしているはずだよ。保健室の先生なんだから」
「子供は正直なんだよ」
「子供?」

 確かに夕凪の態度はまるで幼い子供のようだ。だがあまりにもその言葉がしっくりとハマりすぎていて、逆に不自然に思えた。

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「何つーか……、幼児返り?」
「幼児返り? へえ、なるほどね」

 驚いて目を瞠っていた成瀬だったが、興味深い状況を理解すると笑い噛み殺したように頬を震わせた。

「つくづく面白い子だねぇ、君は」

 そして夕凪の頭を撫でようと手を伸ばす。だがその手を避けるように雷波が身を翻して夕凪を遠ざけた。

「あー…、触んないで先生。触ったら噛みつきますよ。……俺が」
「ああ…それは怖い」

 肩を竦めて一歩下がる成瀬は参ったの仕草。苦笑いで奥のベッドを明け渡した。

「じゃあ後でちゃんと説明してね」
「へーい」

 気のない返事で部屋の奥に移動すると、雷波はずっと肩に重しをかけていた手の掛かる親友をゆっくりとベッドに下ろした。
 よっこらせ…と口にして、夕凪の体を徐々にベッドに預けていく。が、ベッタリと夕凪の背中がシーツに付いても、重力から解放されない。

「おい、夕凪……」

 なんで離れない?
 夕凪…、ともう一度名前を呼んでみるが重りは消えない。

「大丈夫、どこにも行かねえから」

 そう言っているのに、しがみつく腕は更に強くなるばかり。

「いい加減俺も着替えたいのよ、一旦放して」

 ただでさえも部活で汗をかいてきたばかりなのだ。気心の知れた夕凪相手とはいえ、汗を含んだシャツにいつまでも顔を押し付けられているのは恥ずかしい。

「一旦たんまして。そしたらまた背中でも胸でも貸してやるから」

 な? と優しく声を掛けると、ようやく夕凪の腕から力が抜けた。名残惜しそうに絡む夕凪の腕をそっと解き、雷波はスポーツバッグの中から制服のシャツを取り出した。
 やっと楽になった体は随分と軽く感じる。
 ガバッと勢いよくシャツを脱ぎ、雷波は苦笑いを零した。だいたいの予想はついていたが、シャツの背中がビショビショなのだ。

「すげえ濡れてんじゃねーか」
「ううっ…ごめんなさい」
「いいけど別に……」

 脱いだシャツを丸めてナイロンのバッグに突っ込むと、雷波は替えのティーシャツを被ってその上から制服のシャツを羽織った。そして着替え終わると夕凪に向かって両手を広げる。

「来る?」

 答えを聞くよりも早く、夕凪が胸に飛び込んできた。
本当に、手のかかる親友様だ。





 数十分後――…

「うー……頭痛いー…」

 頭を抱えるようにうずくまり、カラカラの呻き声が静かな空間に零れた。夕凪の声だ。
 保冷剤を瞼に当てたままグッタリと脱力している。そしてそんな夕凪を乗せて走るのは、成瀬の車だ。後部座席には夕凪と雷波。暗くなった道を自宅に送っている途中のようだ。

「うっせえなぁ、さっきからあーだのうーだの。コッチだって肩パンパンだっつーの」

 フンッと鼻息荒く言い捨て、雷波は隣に座る夕凪にわざと当たるように肩をぐるぐると回した。過酷な部活動の後に何十分も大荷物を抱えていたのだ。さすがの雷波でも疲れを隠せない。

「うーあーあああああー…ぁ、だめ揺らさないで、雷波」

 ガンガンと響く頭を抱え、夕凪はごろんと上半身を横たえた。

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 自然と夕凪が雷波に膝枕される形になる。すると雷波は貧乏ゆすりのように足を震わせて夕凪の頭に振動を送った。

「うーぅぅ…、ヤメテ雷波、頭痛いぃぃぃ……死んじゃう」
「二日酔いかよテメーは」

 しかめ面で見下ろす雷波を夕凪は重たい瞼で眩しそうに見上げる。

「もうちょっと労わってくれてもいいじゃん」
「何を労われっつんだよ。お前のは自業自得だろーが。俺のはお前、完全なトバッチリなんだからな!」
「我慢しろ」
「お前が言うな」

 雷波の大きな両手が夕凪の頭と顎を押さえ、グラグラと脳を揺さぶる。

「あああーっ、ごめんなさいいーぃ…!」
「アハハ、さっきまでの泣き虫坊やが嘘のようだね」

 それまでニコニコとバックミラー越しに後部座席を見守っていた成瀬が、堪らずに笑みを洩らした。その声につられて飛び起きた夕凪の顔は真っ赤だ。

「うるさいですよ……」
「子供の君も可愛かったよ」
「あーもー忘れて下さい、その話は」

 クスクスと笑われて、夕凪はムッと口を尖らせた。
そんな夕凪を横目で見ていた雷波がニヤリと口角を上げる。そして夕凪の耳元まで口を寄せてからかうように囁いた。

「可愛かったってよ」
「……っるさい!」

 握った拳で雷波の太ももを叩こうとした夕凪の手を、雷波がゲラゲラ笑いながら受け止める。

「あーもー先生! 雷波やだー、雷波だけ降ろしてー!」

 鬱陶しそうに雷波を押しのけて、夕凪は運転席の成瀬に呼びかけた。

「あ、センセ。次の信号左ね」

 そんな夕凪を楽しそうにからかいながらも、雷波は鷹森家への帰路を成瀬に指示するのを忘れない。
 成瀬も雷波の指示に従いながら、赤信号を確認しゆっくりと停止線に止まった。

「どうでもいいけど君たち、シートベルトだけはしっかり締めてよね」

 さっきから自由に身動きしているが、それもそのはず、彼らをシートに繋ぎ止めるべきシートベルトが完全に役割を持て余しているのだから。

「それ締めてくれないと二人ともここで降ろすからね」

 注意をすれば一応はシートベルトを装着する。だがものの数十秒後には、直ぐに彼らは自由へと解放されているのだ。この注意も何度目だろう。

「大丈夫大丈夫、俺、先生の安全運転信じてるから」
「先生、俺頭痛いのー、だからシートベルトしなくてもいい? 具合悪いからシートベルトしなくてもいい?」

 この言い訳もまた合わせ文句。
 だいたい雷波はつい先日、成瀬のことは信用していないと本人に言い放ったばかりではないか。

「まったく君たちは……」

 呆れてそれ以上の言葉もでなかった。
 信号が青に変わり、成瀬が車を走らせる。

「鷹森くんは仕方ないけど、池澤くんはダメだよ」

それを聞いてニィーっと勝ち誇ったように笑いかける夕凪。

「へーい」

 口を曲げつつも、雷波がカチリとシートベルトを締める音がした。

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 ふと、車内が静かになった。
 雷波が大人しくシートベルトを装着したまま喋らなくなったのだ。無言で前を見つめ、時折進行方向の指示だけを成瀬に伝えている。
 その様子をチラチラと横目で見る夕凪は、しばらく考えた込んだ後、カチリとシートベルトを回した。どうやら一人だけシートベルトをしていない罪悪感に勝てなかったようだ。

「すんのかよ……」
「悪いかよ」

 フッと嘲笑を浮かべる雷波に、夕凪はバツが悪そうに頬を膨らませた。
 サァー…っと路面を走るタイヤの音が心地よく響く。車内に先までの騒がしさはない。成瀬がバックミラーで後ろの二人を確認すると、不貞腐れたような膨れ面をする夕凪の隣で携帯をいじる雷波の姿が窺えた。

「先生、次の信号左ね」
「はいはい」

 夕凪の家への道順を雷波が説明しているというのも可笑しな話だが、一方の夕凪は口を開く気すらないらしい。固く結んだ唇は空気ひとつ洩らさない。
 普段の人懐っこい笑顔からは想像できない程脆く泣くじゃくって、かと思えば今度は怒って……いや、この状況は照れ隠しだろうか。整った夕凪の顔立ちが変化していく様を思い出し、成瀬の口元が自然と緩んだ。

「ん゛んん、ん゛ん…!」

 後方から飛礫のようにぶつけられたのは不自然な咳払い。
 チラリとミラーを覗けば、不穏な空気を察した彼の親友に、痛いほどの眼差しで咎められてしまった。そんな親友の態度もまた、成瀬にとっては微笑ましいオプション。
 このまま無事に送り届けるのはもったいないなぁ……などと、信用されていないついでに罪をひとつ犯してしまおうかとも考えた。無論、考えただけ。
 今この二人を壊してしまうのは尚早すぎる気がして、成瀬は昂ぶる気持ちに蓋をした。


「ねえ、先生……」

 ふと、それまでダンマリを決め込んでいた夕凪がふわりと身を乗り出した。
 運転席のシートを掴み、成瀬の耳元に近付こうとする。そのくすぐったい心地に、柄にもなくドキリとしてしまった。しかし、そんな様子は決して表面には出さない。努めて余裕のある落ちついた調子で答えた。

「何かな?」
「今日のこと……誰にも言わないでね」
「今日のこと?」
「……だから、……俺が泣いたこと」

 ゴニョゴニョと言葉を濁し、再び座席に背中を預ける夕凪。

「どうして?」
「だって、恥ずかしいじゃん」

 しゅんしゅんと俯く夕凪の声は心なしか羞恥の所為で震えていた。
 恥ずかしい……、とは。まさか成瀬が言い触らすとでも思ったのだろうか。考えてもみなかった。だがそれが夕凪の弱みになるのなら、握っているのも悪くない。

「誰にも言わなかったら、何をしてくれる?」
「え…?」
「何をしてくれるの?」

 意地悪く丁寧に訊き返してみると、少しの間を置いた後、夕凪がポツリと力なく言葉を零した。きっとそれが彼にとって最大限の譲歩なのだろう。

「……そしたら、先生のコト、ちょっとだけ信用してあげる」

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「ククッ……わかった。頼むよ」

 信用か。どちらかと言えば警戒心剥き出しでいてくれた方が楽しめるのに……
 信用されるなんてむず痒い関係は、想像しただけで笑みが零れた。

「……だけど、彼は言い触らす気満々みたいだよ」

 夕凪が成瀬の言葉にバッと隣を向くと、携帯を耳に当てた雷波のその口角がニヤリと上を向くのを目撃してしまった。

「あ、もしもし林也か? 今日なー、夕凪が……」
「あ――ッ、バカ、雷波ッ!」

 慌てて雷波から携帯を奪い、耳に押し当てた。そして林也に必死の弁明を試みる。

「もしもし林也? 何でもないからね、雷波の言うこと全部ウソだからねッ!!!!」

 一息で捲し立て、驚いているであろう林也の返答を待った。

 ピッピッピッピッ……
 聞こえてきたのは規則的な電子音。

「ハチ…ジ……ゴジュウ…ヨン…フン、ヲ…オシラセシマス…」

 ポーン、

「えっ……」

夕凪の顔が曇る。それが何か知るや否や途端に顔が熱くなった。

「雷波ぁぁぁぁ―――ッ!」
「うはーっ、おっもしれぇ!」

 真っ赤な顔で怒る夕凪に、雷波は腹を抱えて笑い出した。

「先生―ぇ、雷波がー…」

 それがあまりにも悔しくて、夕凪は運転席のシートを掴んで後ろからガシガシと揺さぶった。

「なんだか今日は小学生の子守りをしているみたいだ」

 再び騒がしくなった車内に、成瀬は言い知れぬくすぐったさを感じていた。

 そうこうしている間に車はようやく夕凪の自宅前に到着する。散々騒いだ夕凪と雷波は成瀬に軽く礼を言うと、ほぼ同時に車から降りた。

「あれ……池澤くんも降りるの? 送っていくのに」

 窓を開け、成瀬は雷波に呼びかけた。

「いーよ、ラブホテルとか連れて行かれそうだし」
「じゃあ僕の部屋ならいい? それともこのまま車でする?」
「サイテー」

 すかさず返す成瀬に雷波はにべもなく鼻を鳴らした。そして生意気な表情で見下ろす雷波の後ろに小さく立つのは、可愛い獲物。

「鷹森くん、それじゃあゆっくり休むんだよ」

 今日ぐらいは優しく手放してあげてもいい。
 そんな穏やかな気持ちで成瀬が窓を閉めると、夕凪が駆け寄って来てコンコンとを窓を叩いた。

「何かな?」

 もう一度窓を開けると、夕凪が手をヒラヒラと招いて成瀬を呼んだ。だから声を聞きとれるように少しだけ身を乗り出した。

「……ありがとう」

 チラッとだけ視線をくれてすぐに横を向いてしまった夕凪の耳は、路地の電灯だけに照らされる夜道にもはっきりとわかるほど赤く染まっていた。

 ありがとう、か。くすぐったいが、たまにはこういうのも悪くない。

「それじゃあ……」

 成瀬は目の前にあった夕凪の細い腕を掴み、その耳元を引き寄せた。

「今度は一人でオイデ」

 チュッ…軽い音を立てて薄い唇が離れていく。

「待ってるよ」

 ウインクで夕凪に別れを告げ、成瀬はゆっくりと車を走らせ始めた。
 目を見開いて飛び退いた夕凪の顔は、思い出すだけであと数日は笑えそうだと思った。




---TARGET6の(4)に続く

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