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Target*BoyTARGET7 -快楽者-(1)

長編小説『Target*Boy』の第七章です。

鷹森夕凪のストーカーは世間を賑わす怪盗リオン。毎晩夕凪の部屋に訪れては執拗な求愛をしていく彼に戸惑いっ放しだったが、夕凪のトラウマを受け止め、踏み出す背中を押してくれた彼に夕凪の心は次第に温かい感情を覚え始めていた。
だが、そんな矢先にリオンは何の前触れもなく姿を現さなくなってしまった。代わりに夕凪の前に現れたのは、リオンと同じ見た目をしているのに似ても似つかない冷たい目をした男と、リオンとは全く違う容姿をしているのに彼と同じ匂いを持つ男だった。
「じゃあ今から私が君の恋人だ」

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***


 白い壁で囲まれた部屋はどこまでも無機質で、冷たいリノリウムの床に擦れる靴音は更に音を冷たく感じさせた。薄暗い部屋をかろうじて照らすのは窓から差し込む僅かな光だけ。
 それでも今日のような雨の日には陰鬱な光でしかなかった。

 男はそっと、サイドテーブルに飾られた木箱を手に取った。
 ポロン…男が傾けた木箱から高い音色が零れる。
 蓋を開けると、カタカタと雑音を伴いながらゆっくりとしたメロディーが弾かれる。どこかの国の民謡らしきそれは、懐かしさとともに物悲しさも帯びて響く。そして絶え絶えになりながら最後の力を振り絞って音を弾くと、力尽きたように押し黙った。

 男は木箱の蓋を閉じると、側面を指で辿った。

 ひとつ…、……ふたつ…みっつ…

 木箱の側面にはそれぞれ六つの宝石が埋められている。そして、最後のひとつは窪み。
 まるでそこが木箱の心臓であるかのように、最後の石が嵌められるのを木箱が待っているようだった。

 それさえあれば動きだす―――……




「あとひとつ……あとひとつで君を自由にしてあげられるのに……」

 男の声が聞こえていないかのように、その部屋の中央でベッドに腰掛ける少女は、ただ一点を暗い目で見つめて時折静かに瞬きをした。
 その体は意思を持って動くことはなく、まるで植物が呼吸するように生理的な動作を繰り返すだけ。

「ごめんね、陽菜里……必ず君を自由にしてみせるから……」

 少女の手を握り、男は包み込むように手の平を重ねた。


「坊ちゃま、旦那様がお探しです」
「ありがとう山吹、今行く」

 男が出ていってしまった冷たい部屋で、陽菜里と呼ばれた少女の頬に一筋の涙が伝った。

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 ここ数日は気温がぐんと下がり、温かい布団が一段と心地よく感じられた。夢からまどろみの世界へと浮上した意識を、鷹森夕凪はベッドの中で手繰り寄せた。

 まだ、もう少しこちらの世界にいたい……。現実は、まだ見たくない。夢うつつの気だるい痺れにこのまま身を任せることができたなら……

 PiPiPi...PiPiPiPi...

 そこで静寂を破る高いアラーム音。
 夢の終わりと現実の訪れを告げるその電子音に夕凪は深い溜め息を吐いた。

 ああ、また朝が来た。夜が訪れていないのに、朝がまた……

 夜のない朝を数えて10日が経った。10日だ。
 今まで、朝は必ず夜の次にやって来るものだと思っていた。どんなに虚しい朝だろうと、その前には必ず夜が存在した。
 それなのに夜が消えてしまったのは、きっと夜が時間ではなく特別な存在になってしまったから。夜が訪れなくなってそれは朝の延長になり、朝はまた来ない夜への長い長い延長のような気がした。


「傍にいてくれるって言ったのに……」

 晴々としない気持ちに鞭打って体を無理矢理ベッドから起こし、夕凪はもう一度大きく溜め息を零す。
 そして当たりどころのないモヤモヤを拳に握り締めて、自分の腿に八当たりをした。まるで駄々をこねる子供が地団太を踏むように。

 途端に空しくなった。この毎日の繰り返しがバカバカしくさえ思える。
 ほんの数か月前までは日常だった朝のはずだ。独りの夜も独りの朝も何度も越えてきたじゃないか。
 長い長い夢から覚めたのかもしれない。
 心の片隅で現実が嗤った。

 ふと、机の上で笑う見覚えのある人形が目に入った。
 漆黒のマントに身を包み、大きなゴーグルで正体を隠すその人形。―――夜、だ。
 普段はラックの上段に飾ってあるのに、どうしてあんなところに置いてあるのだろう。
 不思議に思って近づくと、そこには一本のバラとともにメッセージカードが添えられていた。

 ───────────
 いつでも君の傍にいるから
 ───────────

 差し出し人の名前はない。
 それでもいくつもの証拠が彼を示していた。


「……馬鹿リオン。」

 その名前を声に出してみる。ジンと胸が熱く焼けるような気がした。夢じゃない、とその痛みが証明するかのように。

「来たなら声ぐらい掛けていけよ」

 ずっと待っていた夕凪に対して、たった一枚のメッセージカードのみ。

「何だよコレ……」

 視界がジワリと霞んで、夕凪の手からはらりとカードが滑り落ちた。
 これじゃあまるで置手紙だ。昔から両親が不在の家にいることが多かった夕凪にとって、置手紙には苦い思い出しかなかった。時間差のある言葉のやり取りにその距離をまざまざと見せつけられているようで悔しかった。

 ただ一言でいい、声が聞きたかった。直接その言葉が欲しかった。

「こんなに放っておいて、こんな手紙だけって……」

 浮かんだ涙をごしごしと拭って夕凪はリオンの人形を見下ろした。唇を一文字に結んで大きく息を吸い込む。

「嫌いになっても知らないからな……」

 精一杯の強がりで涙を押し殺し、バラの花を持つその人形を指で倒した。
 コテンと横になったまま微笑みを浮かべ、何も言わないその姿が余計に恨めしかった。

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「ねえリオン…、本当に俺のこと好きなの?」

 倒されて尚微笑む憎らしい人形と睨めっこする。

 好きならこんな寂しい思いをさせるなよ。好きなら、早く会いにきてよ。
 好きなら……、ちゃんと聞かせてよ。

 だが答えが返って来るはずもない。
 そんなことなど百も承知で問い掛けたのは、重く佇むこの沈黙をどうにかして払拭させたかったからだ。

「こんなカードじゃわからない。あんたの声が聞きたいよ……」

 両手で人形を拾い上げ、途方もない沈黙の中で目を閉じた。
 もしかして記憶の中でなら、その答えがもらえるかもしれない……そんな気がした。耳に馴染んだあの声で、夕凪が欲しいその言葉を―――……


「ねえリオン……、俺のこと……好き?」

 返事があるはずもない。無害に微笑むリオンの人形に苦笑いを零し、夕凪は再びそれを机に戻した。








「……好きだよ。」


 返ってくるはずもない問い掛けの答えが音に乗って心臓を弾いた。

「好きだよ、レディ。愛してる」

 ふわりと抱きしめられる。

「……どうして?」

 居るはずもない人物、答えてくれるはずのない人物がここにいる―――…‥
 久々に鼻孔をくすぐるバラの香りが余計に全身の力を奪った。

「本当はね、このまま帰ろうと思ってたんだ。だけどやっぱり君の顔が見たかった。声が聞きたかった。……抱きしめたかった」

 グッと籠る腕の力がその想いの強さを物語る。

「ごめんね、レディ……会いたかった」

 首筋に熱いリオンの息が掛かる。久しぶりに感じるその体温に、夕凪の体も熱くなった。

「……リオン、」

 呼ぶ声は掠れてほとんど音にならなかった。ちゃんと呼び掛けたいのに、うまく声に出せる気がしなかった。
 もやもやと渦巻くいくつもの不可解。言いたいことも訊きたいことも、山ほどあったはずなのに言葉が出てこない。

 どうして会いに来てくれなかったの……?

 出かかった言葉が喉に痞えてチリチリと焼けた。
 何かあったのだとすぐにわかった。だが、訊いちゃいけない、探っちゃいけない。咄嗟的にそう感じてしまったのだ。

「レディ、君は…必ず僕が守るから」

 そう言って抱きしめるリオンの腕が小刻みに震えていたから。絞り出すような声が掠れていたから……
 その姿が、詮索を拒み、知られることに怯えていた自分と重なったのだ。だからリオンがそうしてくれたように自分もリオンが語ってくれるまで待とうと思った。
 ならば今できるのは、彼の不安を受け止めてあげること。そして……、

「いいこと教えてあげようか、リオン」

 振り返り、怯えた子供のように所在なさげに立つリオンに笑い掛けた。その背中をさすることくらいなら自分にもできるはずだと、正面からリオンを抱きしめる。

「俺もアンタのこと好き……だよ」

 まだ口にして良いのかもわからない不確かな気持ちだったが、そう口にしたことに後悔はなかった。

「レディ……」
「何があったか知らないけど、そんな泣きそうな顔すんな」

 無理矢理問い詰める気はない、だから安心して……
 そう言外に託して、夕凪はリオンの背中を宥めた。

「リオンが俺を守ってくれるなら、俺だってリオンを守りたいよ」

 先ほどのリオンの言葉に答える。

「だから、傍にいさせて……」

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「ねえ君。君は飛沫高の生徒かい?」

 バス停を降りたところで不意に声を掛けられた。
 自分に宛てられた問い掛けだったのかはわからなかったが、夕凪が振り返ると、そこにはモデルさながら品の良さそうなスーツに身を包んだ細い長身の男が立っていた。
 他にも数人、夕凪同様男を振り返った生徒が居たが、視線は間違いなく夕凪を捕らえている。
 だが立ち止まった夕凪は、彼の簡単な問い掛けの内容さえ忘れてその場に固まってしまった。
 視線も声も呼吸さえも彼に奪われてしまったように動くことができない。
 それほどに、そこに居た彼は特別だったのだ。

 穏やかな晴天の空の下にあってすら纏う空気が他と異質なのは、彼自身の妖艶な姿の所為かもしれない。
 腰のあたりまで伸びた流れるような銀髪がキラキラと光に照らされ、整った顔立ちは今まで夕凪が見たどの人間よりも洗練されているような気がした。
 そう、人間と呼ぶにはあまりにその言葉が適さないように思えて、夕凪は言葉を失った。
 天使、妖精、そんなものじゃない。彼を的確に表現するならもっと……‥

「私の顔に何か付いているかな?」

 フッと笑われ夕凪はまたしても息を呑む。
 美しいものと遭遇した時、人はこんなにも動くことができなくなるのか。まるで魂が吸い取られそうな心地に鳥肌が立つのを感じた。
 動かない体とは裏腹に心臓の鼓動だけがやけに激しく暴れまわる。

「ねえ、そんなに可愛い顔で見つめたって私の顔に穴を開けることなんてできないよ?」

 色素の薄いブルーの瞳がスッと細められ、夕凪はハッと視界を晴らした。

「す…すみません……」

 不躾に送ってしまった視線。それでも男はそんな視線にさえ慣れているようで、気にしていないよ、と穏やかに微笑んだ。

「スミマセン…」

 申し訳なさにしゅんと項垂れ、夕凪は何とか詫びる言葉を探そうと頭を巡らせたが見つからない。結局口にしたのは先ほどと変わらない短い言葉だった。

「本当にいいんだよ。それよりも飛沫高校に行きたいんだけど、連れていってくれないかな?」
「あ、はい!」

 先ほどの粗相のお詫びに何かできることがあるのなら。夕凪は喜んで頷いた。
 ドキドキと暴れ狂う心臓に落ち着くよう言い聞かせ、学校への道案内を快諾した。と言ってもバス停から正門までは僅かな距離だ。案内というよりは同行と言った方が正しいかもしれない。

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「君は何年生?」
「二年です」
「そう。学校は楽しい?」
「あ……、はい」

 他愛のない会話を持ち掛けてくる男に、夕凪は終始緊張しながら言葉少なに答えた。
 緊張の理由はもちろん、男の身に付けたオーラと容姿の所為でもあったが、一番の理由は並んで歩く横顔に刺さる熱いくらいの視線だろう。熱心に夕凪を見つめる男の視線を気配で感じ、夕凪は顔を上げることができなかった。

 すると、ふわりと繊麗な指が夕凪の髪を梳いた。背筋を走るぞわりとした感覚に夕凪は肩を震わせる。

「ごめん…驚かせてしまったかな? ゴミが付いてたから」

 にこりと笑って夕凪の髪に付いていたゴミを風に運ばせるその仕草は、まるで自然までもを召使に従えているような不思議な心地を抱かせた。

「……ありがとうございます」

 何でもない仕草に過剰な反応をしてしまった。それが恥ずかしくて、夕凪は顔を赤くしたまま頭を下げた。まだ心臓が落ち着かない。

「どういたしまして」

 しかし再び綺麗な笑顔で微笑まれたので、夕凪もにこりと笑顔でそれに応えた。
 向けられた笑顔を反射的に映して笑うのはちょっとした夕凪のクセでもあるのだが、男への警戒が少しだけ解けてきた証拠でもあった。

 すると、次の瞬間、男の表情から一瞬にして笑顔が消えた。


「ダメだよ……」
「え……?」

 向けられる声も視線も、驚くほど冷たい。

「私の前で警戒を解いてはダメ。君は追われる立場なのだから」

 氷のような声が夕凪の鼓膜を静かに震わせると、まるで金縛りにあったように、夕凪はそれ以上口を利くことも体を動かすこともできなくなってしまった。瞬きも忘れ、ただ相手の顔を見つめることしかできない。
 冷ややかな笑みを湛えた男の口元が確かな愉悦を浮かばせた。

「案内ありがとう、鷹森夕凪くん。また会おうね」

 男は正門に辿り着くと、颯爽と校舎に向かって歩き始めた。
 まるで自分の行き先が明確にわかっているような、はっきりとした足取りで。

 そもそもバス停からここに来る間は他の生徒も学校へ向かっているのだ。夕凪に道案内を頼まずとも、飛沫高の制服を着たその流れに従えば自ずと学校には辿り着けたはずだ。

 では、何故彼は夕凪に声をかけたのだろう……
 何故……、夕凪の名前を知っていた?

 冷酷を思わせる彼の声がグルグルと頭の中で響いていた。

6ページへ***


「雷波ぁ―…ッッ、聞いて聞いて、俺さっき雪女に会った! あ、いや…雪男か?」
「はあ?」

 教室に着くなり興奮した様子で駆け寄った親友の姿に、池澤雷波は眉を寄せた。
 そしてああでもないこうでもない…などと頭を捻って言葉を探す彼を胡乱な目で見下ろす。

「オメデトウ、……じゃあな」

 ピシャリと夕凪を突き放して背を向けた雷波。

「え…っ、ちょーッ! 待って待って待って! 何で行っちゃうの、聞いてってば!」

 その腕を掴み、夕凪は半ば引きずられるように引き止めた。どうしても雷波に伝えたかったのだ。先ほど会った雪女のように冷たい目をした男のことを。
 そう、あの男はまるで雪女のようだと夕凪は思った。誰もが息を呑むほどの美しい容姿を持ちながら、その目は凍るように冷たく恐ろしい。見つめているだけで魂を抜かれてしまいそうなほどゾッとする妖艶な眼差しは、昔話に聞くまさにそれだった。
 優しい声で話しても、柔らかい表情で笑ってみせても、その奥底は凍りついてしまったように動くことはない。
 言い知れない恐怖を飼った男だった。

 その男が何故か夕凪を呼び止め、学校まで案内させた。しかも後の様子からして男はこの学校を知っていたようだった。そして夕凪のことも……
 そんなゾッとするような出来事を誰かに話さないではいられなかった。ひとりで抱えるには怖すぎる。

「さっきさ、バス停を降りたら雪女みたいな男の人が……んむがっ」

 続きを話そうとした夕凪の鼻をふと雷波が摘まんだ。

「なあ、その話聞いたら俺が呪われたりしないよな?」

 ジトーっとした重たい視線が夕凪を刺す。

「わかんないけど、呪われる時は一緒に呪われようよ!」

 ガッツポーズを作ってスローガンのように言い放った夕凪に、雷波のデコピンが飛んだ。

「いてぇッ!」
「呪われねえ程度に話せ」

 それでも話は聞いてくれるらしい。
 雷波が腕を組んで聞く態勢に入ってくれたのを確認して、夕凪はニッと笑って頷き、できるだけ順序立てて先ほど会った奇妙な男の話をした。



「コワッ! 何ソレ……マジで雪女か何かか?」

 一通りの話を聞き終え、雷波は両肘を抱いて身震いをした。正直本気でその男が雪女だなどと信じているわけではいないが、不気味であることに違いない。
 雷波は心配するように夕凪の頭を撫でた。

「気をつけろよ、お前……ただでさえも変なヤツに好かれるんだから」

 変なヤツ、というのが具体的に誰を指してのことかはわからないが、これまで夕凪が色んなトラブルに巻き込まれてきたことは否定できない事実。それこそ思い出すだけでゾッとするものもある。
 心配してくれる親友に申し訳なさを感じつつも、撫でられる大きな手の平の体温に夕凪はぬくぬくと目を細めた。


「そういえばさぁ、若干気になってたんだけど……ぶっちゃけ怪盗リオンと最近どうなの?」
「はあ?」

 出し抜けに訊かれ、夕凪は弾かれたように顔を上げて雷波から飛び退いた。頬はみるみる赤くなり、瞳は明らかに動揺して揺れている。

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「驚き過ぎだろ」

 雷波は過剰な夕凪の反応に一瞬目を見開いたあと、ゆっくりと細めた。

「っつーか、その様子だと俺が心配するようなことはなさそうだな」

 雷波の口先がチュッと軽いリップ音を立てる。

「お盛んのようで」
「へっ、変な勘ぐりヤメロよ!」
「なんだよ、図星なくせにー」
「ち…違ッ!」
「まあ、とにかく安心したわ。アイツがこないだ妙なこと言うから気になってたんだよ」
「アイツって…?」
「 ソ イ ツ 」

 雷波が夕凪の胸をトントンと指で突いた。思い浮かんだ人物と一緒だ…ということだろうか。
 だとしたらその人物が指すのは、リオン。雷波はいつリオンに会ったのだろう。リオンがここ数日の間、姿を現さなかった理由を雷波は知っているのだろうか?

 夕凪の表情に急に不安の色が差した。
 ピクリと引き攣った夕凪の表情を親友である雷波が見逃すはずがない。不穏を読み取り、雷波はまだ口にするべきじゃなかったかと眉を寄せた。

「あの人……、雷波に何か言ってたの?」

 この一週間、置手紙だけを残して姿を見せなかったリオン。その理由を雷波は知っているのだろうか。
 もしかしたら、雷波は夕凪が聞かされていなかったこの空白の数日間を知っているのかもしれない。

「ねえ雷波、教えて!」

 だが雷波は難しい顔をしたまま黙り込んでしまった。言葉を篩にかけ、夕凪に伝える言葉を慎重に探しているようだった。

「……言えないことなの?」

 思わしくない雷波の態度に夕凪はますます表情を曇らせた。
 何故、リオンは雷波にだけ伝えたのだろう。雷波には言えて夕凪には言えない事情とは何なのだろう……

「……あの人がそう言ったの?」
「……」
「俺には言っちゃダメだって……?」
「違う……」

 怯えた目で見上げる夕凪に雷波がようやく重たい口を開いた。

「お前を……頼むって言われたんだ」
「……なんで?」

 夕凪の顔が泣きそうにくしゃりと歪む。

「俺を頼むって、どういう意味? 何でそんなこと……」

 どうしてリオンは雷波にそんなことを言ったのだろう。ずっと傍にいてくれると約束したのに……、守ってくれると言っていたのに……

 泣きそうに潤んだ目は、雷波を通してその奥にいる人物へと直接投げかけられた問い掛けのように思えた。
 そんな夕凪に、雷波は一層険しく眉根を寄せる。

「そんなの、俺の方が知りてぇよ」

 気を紛らわすように夕凪の頬をつねり、雷波は苦い表情を浮かべて呟いた。

「ずっと気になっちまって、仕方ねえっつーの」

 雷波の懸念通り、夕凪とリオンに何かがあったことは火を見るより明らかだった。
 怪盗リオンはいったい夕凪に何をしたんだ?
 雷波が夕凪に問い質そうとした時、その重苦しい空気を遮断するように教室のスピーカーから朝礼を知らせるチャイムが響いた。
 この学校では校内放送を使って朝礼を行うため、ガタガタと慌ただしく音を立てて生徒たちがそれぞれの席に戻っていった。

 人の波に押し流され、結局お互いに真相を聞けないまま、夕凪と雷波は自分の席に着いた。

8ページへ***



『それでは次に、皆さんにご来訪の先生を紹介します』

 教室前方のテレビモニターに映し出された生徒会副会長、藤咲英が爽やかな口調で朝礼を仕切っていく。学園のプリンセスである英の笑顔を前に、男子はうっとりと目を注ぎ、一部の嫉妬深い女子がつまらなそうに手遊びをする他は、女子も好感の視線を画面に向けていた。

『銀嶺学園からいらっしゃいました寺杣吹雪先生です。寺杣先生は今日一日この飛沫高校を見学されることになりました。では、寺杣先生からご挨拶を頂きたいと思います』

 英に紹介されて、件の人物が画面に映し出された。
 途端、その美貌の持ち主に、クラスの…いや恐らく校内の誰もが息を呑んだ。
 その中でひとり、夕凪だけが身震いをする。

 モニターに映し出されたその男は、今朝、夕凪が会ったあの男に間違いない。
 寺杣 吹雪(テラスマ フブキ)というこの男、銀嶺学園の職員だったらしい。とりあえず雪男ではなかったことにホッとしつつ夕凪は画面を見守った。

 さて、銀嶺学園とはこの辺りでは有名な全寮制の名門男子高校だ。その学園の先生がいったい何故、飛沫高校に現れたのだろう。


『ご紹介に預かりました寺杣です。この度は我が銀嶺学園の共学化計画に伴い、この飛沫高校の自由でのびのびとした校風を参考にしたいと思い、校長先生に無理を言って見学をお願いしました』

 低く甘く脳髄に囁き掛けるようなその声に誰もが静かに耳を傾けた。

『なので、もし校内ですれ違ったらどうぞ私には構わず、いつも通りの皆さんの姿を見せて下さい』

 吹雪はにこりと口角をあげると、会釈の代わりに一度ゆっくりと瞬きをした。まるで時が止まったように硬直した空間が、その瞬きを合図に息を吹き返した。
 ザワザワと教室中が騒がしくなる。何か面白いことが起こりそうな予感に、学校中の生徒がどよめき立った。

 スピーチを終えた吹雪に「ありがとうございました」とお辞儀をして英がマイクを受け取ろうとすると、吹雪は人差し指を立てて英を止めた。

『ああそうだ。最後にひとついいかな?』

 そして思い出したように吹雪がカメラに目を向けた。薄いブルーの瞳が真っ直ぐにこちらを見据える。

『二年A組の鷹森夕凪くん。君にこの学校の案内をお願いしたい。先生には話をしておくからホームルームが終わったあと応接室まで迎えに来てほしい』



「……は?」

 ポカンと口を開ける夕凪にクラスメイトたちの視線が集まった。

「……どういうこと?」

 そんな誰からともない質問に、当の夕凪も首を傾げた。

9ページへ***



「失礼します……」

 応接室のドアをノックし、中から許可の声が聞こえたのを確認して夕凪は足を踏み入れた。決して重々しいわけではないのに気押されてしまいそうな空気がその部屋から零れる。
 夕凪はゴクリと喉を動かした。

「待っていたよ。さあ来て、ここに座って」

 独特な威圧感を放つその人物がゆったりと笑い、手招きをする。その手に誘導されるままに近寄れば、背後でバタンと扉が閉まる音が夕凪の心臓を弾いた。

「ふふっ、いい顔だね。私の言いつけをちゃんと守っている」

 言いつけ……、今朝の去り際に彼が放ったあの言葉だ。

『私の前で警戒を解いてはダメ。君は追われる立場なのだから』

 不可解な点がいくつも折り重なって、夕凪は緊張した面持ちで吹雪の方へと体を向けた。

「物分かりのいい子は好きだよ。さあ、ここに座って」

 にこりと微笑む吹雪が指すのは自らが腰掛けたソファの隣。そこに座るようにと少し場所を開け、夕凪をジッと見つめた。
 鋭い視線が脚を硬直させる。だが動こうとしない夕凪を咎めるように、視線が更に冷たいものとなって突き刺した。
 ふー…鼻を抜けるような静かな苛立ちを見せる吹雪の溜め息に、夕凪はようやく足を踏み出した。震える膝を励まし、彼の隣に腰を下ろす。

「いい子だね」

 髪を撫でられると、居心地の悪い恐怖がもぞもぞと背中を走った。

「いいかい? 君はそうやって私の言うことを聞いていればいい。私が質問したことにだけ答えて、私がしていいと言ったことだけをするんだ。わかったかな?」

 吹雪の声は確かに聞こえていた。だが夕凪はそれに対して返事をすることができない。吹雪の言うことがあまりに理解の範疇を越えていたからだ。

「返事は?」

 そんな夕凪に焦れたのか、苛立つ吹雪の声が低くなる。逆らう余地など一切与えられていない。
 夕凪は掠れた声で頷いた。

「……は、い」
「いい子だ」

 底冷えするような殺気。こんな得体のしれない感情に当てられたことのない夕凪には恐怖以外感じることができない。否、夕凪でなくとも彼の前では萎縮するより他ないのだろう。疑問を口にするどころか、何かを言い返すことさえも恐ろしい呪文であるかのように、そこに鎮座した空気は夕凪の口を重くした。

「それにしても、こうして見ると本当に綺麗な顔をしているね。恋人は?」

 吹雪の質問に、夕凪は居ないと首を横に振る。

「そう。それはよかった」

 ふわりと笑う声が耳を掠めたかと思った瞬間、夕凪の視界がぐらりと傾き、天井との間に妖艶な吹雪の整った顔が差し込んだ。
 そして夕凪は自分がソファに押し倒されたのだと気付く。
 慌てて起き上ろうと吹雪の肩を押し返せば、その手を掴まれ、頭上に纏め上げられてしまった。

「じゃあ今から私が君の恋人だ」

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 何を言われたのか瞬時にはわからなかった。呆気にとられたように、夕凪は目の前の彼を見つめる。
 色素の薄い蒼をした瞳とシルクのように艶やかな銀色の髪を持つ吹雪の顔をぼんやりと見つめながら、ある人物を思い浮かべた。
 吹雪と同じソレを持つ彼は、あんなにも夕凪に安らぎを与えてくれるのに、目前の男は似ても似つかない。
 囁かれる言葉は厭らしく夕凪の神経を逆撫でた。

「君を見つけた時から、君が欲しくて堪らなかった…」
「冗談はやめて下さい」

 吹雪の言葉は白々しく宙を舞う。真意であるはずがない。その証拠にちっとも笑っていない瞳の奥が、夕凪の反応を見逃すまいとジッと窺っているのだから。
 人を試すような愛の言葉に夕凪が揺れ動くはずもなかった。
 代わりにトクン、と心臓を鳴らしたのは体に馴染んだ甘い声の残響。

『好きだよ、レディ。愛してる』

 石を穿つ水滴のように何度も何度もぶつけられたその想いが、夕凪の心の形を確実に変えていた。
 もう夕凪は目の前の恐怖にただ怯えたりしない。温かい腕で心ごと守られているような不思議と落ち着いた穏やかな気持ちが、凍えてしまった夕凪の心をじんわりと溶かした。

『レディ……、君は…必ず僕が守るから』

 俺を守ってくれるんだろ、リオン―――…だったら、俺は大丈夫だ。
 夕凪の顔に気丈の色が差した。

「ふふっ、冗談じゃないんだけどなぁ」

 ゆっくりと体を起こした吹雪はスーツの襟を整えると、夕凪の手を引いて半ば強引に立たせ、その細い腰に腕を回した。

「さあ、では学園の案内を頼もうか」

 ぞわりと背筋を走った鳥肌に夕凪は身を強張らせたが、グッと奥歯を噛み締めて廊下へ続く扉を開けた。

「まずは三年生の教室から……」
「お待ち下さい!」

 寄り添う恋人のように並んで歩き始めた夕凪と吹雪の背に、息を切らして駆け寄る声が届いた。その声に吹雪がゆっくりと振り返る。

「勝手に出歩かれては困ります……」

 相当焦って来たのだろうか、上品な外見に似つかわしくないほど息を切らして走ってきたその人物に吹雪はスッと目を細めた。その瞳が何を語るのかは読み取れない。

「どうしたんだい山吹、そんなに慌てて君らしくもない。それに私は一人歩きもできないほど子供じゃないよ」
「わかっております。ですが問題が起きてからでは……」

 山吹と呼ばれた男が顔を上げた瞬間、彼はものの見事に停止した。吸った息を吐き出すことも忘れて固まっている。

 どうしたのだろう……
 途切れた声の行方を探そうと振り返った夕凪の視線が、その男とぶつかった。
 山吹が驚いた表情で見つめていたのは、外でもない、夕凪だった。
 だが夕凪には何故彼がそんなにも驚いているのか理由がわからない。山吹とは面識もなければ、思い当たる節もないのだ。

「どうかしたのかい、山吹?」

 突然言葉を失くした彼が面白かったのか、吹雪は笑いを含んだ声で呼び掛けた。

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 その呼び掛けにようやく山吹がハッと息を呑んで言葉を紡いだ。

「旦那様、」

 低く窘めるような声色で山吹は吹雪に語り掛けた。

「無関係の一般生徒を巻き込んではなりません」

 夕凪を映したその瞳は苦痛に歪んでいる。だが吹雪はそんな山吹の訴えをも高慢な嘲りで冷たく突き放した。そして凍り付くような眼光で、愚行を冒した彼を鋭く射抜く。

「誰に口を利いている、山吹。お前ごときが私に意見する気か?」
「いえ、そういうつもりでは……ただ、外部へ来て何か問題でもあったら……」
「黙れ…」

 直接自分に向けられた言葉ではないとわかっていても、吹雪の凍るような声は夕凪の肩を震わせた。
 周りの者に対して、このような不遜な態度で蔑む人間を夕凪は見たことがなかったのだ。まるで自分以外のこの世の者は皆、足元に転がる石ころであるかのように振る舞う吹雪が酷く恐ろしい存在に思えた。踏みつけるも蹴飛ばすも、拾うも遊ぶも投げ捨てるも、全ては彼の思いのまま。そこに抱く興味はあれど、特別な感情など全く持っていないかのような振舞いだ。

 押し黙ってしまった山吹を見て、夕凪はハッと視線を断ち切った。
 山吹は自分を助けようとしてくれたのだ。このまま助けを求めるように目を向けていては、彼がまた謂われのない非難を受けなければいけなくなる。
 夕凪はゴクリと唾を呑みこんで姿勢を正すと、静かに吹雪を見上げた。
 この男の神経を逆撫でてはダメだ。下手に口を出せばまた怒りを買ってしまうことは必至。ならばどうすればいい……、先までの機嫌のよかった彼を取り戻すには……

「どうしたんだい、夕凪」

 夕凪の視線に気付いた吹雪がふと首を傾げた。その凄艶な微笑みにゾッとする。何を考えているのかわからない。

「案内……」

 言葉が単語でしか出てこなかった。選ぶ余裕も考える余裕もなく頭に思い浮かんだ言葉。
 とにかくこの場から…山吹の前から吹雪を連れ出さないと……
 それだけを考えていた夕凪が無意識のうちに口にしたのは、先ほど吹雪と交わしたばかりの“学校を案内する”という約束だった。

「ああ、そうか。よく覚えていたね。偉い偉い」

 すると吹雪はまるでペットを褒めるかのように夕凪の頭を撫で、山吹にくるりと背を向けた。そして再び夕凪の腰に腕を回す。

「行こうか」

 夕凪の思惑はどうにか叶ったらしい。
 ホッと胸を撫で下ろした途端、突然ゾッとするような悪寒が夕凪の体を駆け抜けた。

「何にホッとしたんだい、夕凪?」

 ゾクリと肌を粟立たせる声が耳元で囁かれる。

「私が君の思い通りになったとでも思った? ……バカだねぇ」

 逆だよ……
 絶対零度の声色が、鋭い爪のように突き刺さった。

「ああ、そうだ山吹」

 一転して今度は明るい声で吹雪が微笑む。

「一つ訂正しよう。彼は無関係の一般生徒なんかじゃないよ。彼は……私の恋人になったんだ。ねえ、夕凪?」

 表情のないその吹雪の笑顔に、夕凪は頷くことも否定することもできなかった。
 ただ嫌な汗がじわりと浮かんで、体が震えた。

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「そうだ、ウチに招待しようか。アレにも見せてやろう」

 子供のように肩を揺らして笑う吹雪の振動が夕凪にも伝わる。そのグラグラした感覚が余計に夕凪の気分を重くした。

「山吹、アレに伝えてくれないか。今日は早く帰って来るように、と」
「坊ちゃまに…ですか……」

 まるでとてつもない使命を言い渡されたように、山吹は苦悶の表情を浮かべて頭を下げた。







「その必要はないよ、山吹」


 しん…とした廊下に響いた凛乎たる声。
 その声はそこに停滞していた重苦しい空気を一瞬で薙ぎ払った。

「話はだいたい聞こえました」

 端然とそこに立つ男は真っ直ぐ吹雪を見つめ、まるで視線で会話をするかのように口を噤んだ。

「白雪…。こんな所まで何をしに来たんだい?」

 温度のない声だけが廊下を静かに闊歩する。
 白雪と呼ばれたその男の登場を喜んでいるのかそうでないのかは、声主の表情や声色からでは読み取れない。
 ただ、この場で次に発言する権利が誰にも与えられていないことは暗黙の内に誰もが悟った。問い掛けの答えさえ吹雪は欲していない。
 そしてその答えを自分で見つけると、吹雪は小さく笑みを零した。

「ああ、山吹が教えたんだね。そんなにいけないかい? 私がこの学校に来ることは」

 吹雪の言葉の一つ一つが、ずっしりと重たい足跡を残す。

「わざわざソレに知らせて引っ張り出さなければいけないほど大切なものがココにあるのかな?」

 ねえ、夕凪?
 吹雪は口元だけに作った笑みを夕凪に向け、抱いていた夕凪の腰をさらに引き寄せた。その仕草に夕凪の頬は吹雪の胸にぶつかったが、視線は現れたばかりの白雪から離すことができなかった。

 耳に馴染んだ声が聞こえた気がして……
 茶色い髪も眼鏡の奥の黒掛かった瞳の色も、夕凪の知っている彼のものとは真逆の印象しかない。湛えた雰囲気も普段感じてきたそれとは似ても似つかない。
 それでもその男の中に彼を見てしまったのだ。
 自分でも信じられないが、今朝方会ったばかりの、会いたくて仕方がなかった神出鬼没の大怪盗の面影を……

 その真偽が知りたくて、夕凪は白雪を見つめた。

 あなたは誰? 俺の知っている人?
 もしそうだとしたら何か合図がもらえそうな気がして。

 だが白雪の視線が夕凪に向けられる前に夕凪の瞼は暗幕で覆われてしまった。そして低い声が耳元で囁く。

「どうしたんだい夕凪、そんなに夢中になってアレを見つめて……知り合いだったかな?」

 遮ったのは吹雪の手の平だとわかった。
 白雪を見つめる夕凪の視界を閉ざした吹雪は、探るように問い掛ける。先ほどとは違い、尋ねる声は答えを……反応を窺っているようだ。
 しかし吹雪が睨めつけるように目を凝らしていたのは夕凪ではなく、その視線を一身に受けていた白雪の方だった。
 顔色を変えずに対峙するその男の一挙手一投足を、じっとりと、瞬きもせずに……。答え如何では牙を剥いて攻撃することも厭わない。そんな目つきだった。

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「ええ、」

 少しの沈黙の後、聞こえたのは肯定の言葉。夕凪はハッと肩を揺らした。
 白雪が自分との面識を認めたのだ。だとしたら彼はやはり……
 言い知れない期待に耳が熱くなる。

「病院の方で数回見かけたことが……」

 しかし、夕凪が期待した答えではなかった。
 病院というのは、寺杣グループが経営する寺杣総合病院のことだろう。近隣では一番有名で大きな病院だ。
 ウロボロスの事件で夕凪と春人が運ばれたのも、先日竜太が入院していたのもこの寺杣総合病院だった。遭遇の機会があっても可笑しくはない。

「先日の理事会の帰りに一般病棟の中庭で彼とぶつかりました。確か貴方もご一緒だったはずだと……」

 白雪の言葉に夕凪の薄れかかっていた記憶が呼び起こされた。
 そうだ、竜太の見舞いに行った先で彼に会ったのだ。庭を散歩していて彼にぶつかり、その時も今のように不思議な心地を抱いたことを思い出した。

「ああ、そうだったかな…」

 白雪の声に集中していると、また耳元で吹雪の声が聞こえた。ゆっくりと晴れる視界。吹雪が相変わらずの笑っていない笑顔で夕凪を覗き込んでいた。

「前にも私たちは会っていたんだね、夕凪。これは運命というやつなのかな?」

 “運命”―――…‥吹雪がどういうつもりでその言葉を口にしたのかはわからない。ただ今は使ってほしくなかった。
 自分を見つめる“彼”がいる目の前では……
 白雪がどんな顔でその言葉を聞いていたのかが気になって、夕凪は縋るような眼差しを向けた。自分と吹雪はそんな関係ではないと伝えたかった。

 だが、夕凪を見る彼の目はとても冷静だった。
 夕凪が思い浮かべた“彼”であれば間違いなく嫉妬に燃えるであろうその場面でも、白雪は静かに瞬きをして口を開いた。

「この学校とその生徒に迷惑をかけるのは如何なものかと……。見学ならば私が付き添います。案内役が必要ならばきちんと学校側で用意して頂いた方にお願いしましょう。見たところ彼は一般生徒です」

 その淡々とした口調が余計に夕凪の不安を煽った。夕凪には興味もないような口ぶりが怖かった。
 “彼”なら自分をそんな風に邪険に扱ったりしない――…‥
 夕凪の思う“彼”と白雪が同一人物である確証なんてどこにもないはずなのに、無関心な態度を取られたことが、嫌われてしまったのではないかという恐怖に結びついてしまった。
 例え別人であっても彼に見損なってほしくない――…‥
 夕凪は親しげに腰に回された腕を振り解こうと掴んだ。が、すぐにその抵抗は吹雪の手によって去なされてしまった。そして今度こそ抵抗は許さないとばかりに引き寄せられる。

「夕凪は私の恋人だ。私の言うことを聞かなくてはいけない。ねえ夕凪、アレに教えてあげなさい。君が……誰のものになったか」

 うっとりと囁く声で耳を嬲られ、ゾクリと背筋が粟立った。

 誰のものになったか……?


「あなたのものじゃない……」

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「……は?」

 温度のない吹雪の声が突き刺さる。だが夕凪はきっぱりと言い放った。

「俺はあなたのものじゃない。あなたの恋人にはならない」

 腕を突っぱねて後退った。

「夕凪、自分が何を言ったかわかるかい?」

 絶対零度の眼差しがその場の空気を凍らせた。その気迫に当てられ、夕凪の唇が僅かに震える。
 とんでもないことをしてしまった。自分がしてしまったことの重大さがひしひしと伝わる。夕凪は、悪魔に逆らってしまったのだ。
 怯んで思わず腰が抜けそうになったが、それでも吹雪に向けて恋人だと肯定することなど、とてもじゃないができなかった。
 頭に浮かんだ“彼”と“彼”を思わせる雰囲気を纏った彼の前では……

「おいで夕凪……。君とはもう少し ハナシアイ が必要みたいだ」
「それくらいにして下さい、兄さん……」

 ふわりと夕凪の前に影ができ、よく知った香りが鼻孔をくすぐった。その瞬間、ギリギリで持ち堪えていた膝がカクンと落ちた。
 覚えのある香り……バラの……あんたやっぱり、リオンなんだろ?

「大丈夫ですか…」

 慌てて掛け寄ってくれた山吹の声に小さく頷いた。
 無様に座り込んでしまったわけだが、そんなことよりも頭を占領する考えの方が衝撃的で、早鐘のように打ち始めた鼓動に声を出すことすらできなかった。

「この状態で彼に案内を頼むなんて無理です、やはり別の方にお願いしましょう」

 夕凪を気遣い、山吹が吹雪に頭を下げた。

「兄さんには僕がいるでしょう?」

 白雪が吹雪の背を押して廊下を進もうと歩みを始めたその時だった。


「何でボクが先生の荷物持ちなんてせなあかんのですか」
「教員の中で君が一番若くて力持ちだからだよ」

 静かな廊下に近づいてくる呑気な話し声と足音が聞こえた。

「そりゃ若いんは認めますけど、チカラはナイですって……筆より重たいのは持ったことないですモン。腕が千切れてまいますわぁ」
「大丈夫ですよ、千切れたら僕が縫い付けてあげますから」
「イヤやわ、あんた医師免許ないですやん!」

 飄々とした関西弁と甘くくぐもった笑い声の教師が二人。
 廊下の向こうからやってきたのは、荷物を抱えた美術教師、鳳流豪樹と養護教諭の成瀬貴宏だった。出張していた成瀬の荷物持ちとして豪樹が同行し、二人は今朝の新幹線でこちらに帰ってきたらしい。
 学校に着いたばかりの彼らは、起こっている騒動をまだ知らない。

「鳳流先生、僕の部屋でお茶でも如何ですか? 出張先ではなかなかゆっくりできませんでしたから」
「そら遠慮しときます。ボクもやらなあかんことがありますんで」
「それは残念。なら彼を誘おうかな」
「……彼?」
「ええ、鷹…」
「ゆう君……?」
「ええそうですよ。鷹も…っ」

「鷹森ッ!!」

 廊下に座り込む夕凪をいち早く見つけたのは豪樹だった。持っていた資料を投げ出し、夕凪に駆けつける。

「どないしてん? 気分でも悪なったんか?」

 山吹の腕から夕凪を預かり受け、青ざめた頬を包み込んだ。

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「……豪…くん?」
「せや、どないしてん?」

 豪樹を認め、ホッと息を吐く夕凪。

「成瀬せんせ、鷹森の具合見てやって下さい」

 そして豪樹は呆然と立ち尽くしたままの成瀬に呼び掛けた。その声にハッとした成瀬が駆け寄ってくる。

「脈が早いね、少し保健室で休ませましょう。鳳流先生、鷹森くんを保健室へ」
「はい」

 テキパキと夕凪の脈を取り、成瀬は豪樹に保健室の鍵を手渡した。

「私もご一緒します」

 すると当然のように山吹が同行しようと畏まった態度で頭を下げるので、成瀬は疑り深く彼を見つめた。そして、その視線を山吹の後方に立つ吹雪へと移動させる。

「何のつもりですか寺杣さん」
「ああ、誰かと思えば君は若田部医院の……。お父様はご健在かい?」

 どうやら顔見知りらしい。
 だが、彼らの間に降り立ったのは互いを懐かしむ懐古の情などではなく、ワケありを思わせる重たく息苦しい雰囲気だった。
 成瀬の言動には隠そうともしない苛立ちが見て取れる。

「白々しい。それとも興味もありませんでしたか? ご自分で潰されたいくつもの病院とその家族たちがどうなったかなんて……」
「そうだね。でも今君を見て興味が湧いたよ。驚いた、君は医者を諦めて養護教諭をやっているのかい?」

 成瀬の刺々しい物言いに、吹雪は挑発ともとれる嘲りを含めた言葉を返す。
 一触即発…まさにそんな空気だった。それを先に断ち切ったのは成瀬。視線を切ることで吹雪の言葉を聞き捨て、今度は夕凪を支えようとする山吹に体を向けた。

「付き添いは結構です。それからどのような要件でこの学校に来たのかわかりませんが、お引き取りください」
「ですが…」
「お引き取りください」

 硬い表情で繰り返した。

「もういいよ、山吹。帰ろう。今日は色々と素敵な出会いもあったことだし、大人しく帰るよ」

 山吹は少し渋ったが、それを吹雪があっさりと呼び寄せた。
 吹雪の傍に立っていた白雪も、バツが悪そうに目を伏せたまま吹雪に従う。

「それにしても君が養護教諭とはね。せっかく受かった医学部を中退して養護教諭の資格をとったのかい? 君ならいい医者になれただろうに……残念だよ」
「関係ないでしょう」
「そんなにこの学校との繋がりが大事かい、若田部くん。君たち親子のこの学校に対する執着は凄いなぁ」

 揶揄するように笑った吹雪を成瀬が睨みつけた。

「両親は離婚しました。今は成瀬です」
「そうだったのか、それは知らなかった。まあ、お父様もあれだけ負債を抱えられたら……離婚は賢明な判断だろうね」

 成瀬の拳が小刻みに震えている。暴発しそうになる怒りを必死で拳の中に閉じ込めているみたいだった。

 ふと、その震える拳が優しい温もりで覆われた。
 成瀬がハッと顔を上げると、悲痛な面持ちで眉を寄せた夕凪が成瀬の握った拳を両手で包み込んでいる。

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「先生のご両親はきっとご立派な方です」

 どんなに成瀬が陰で性格破綻者と噂されていようとも、こんな風に両親のことを言われて怒りを露わにするのは、きっと両親に愛されていたからだ。
 苦渋の決断をした両親を思い、その怒りを抑えようと唇を噛み締める成瀬もまた、同じくらい両親を愛していた。

「先生…、」

 夕凪の声が成瀬を呼ぶ。

「先生、」

 握った手を揺さぶって優しく成瀬に呼び掛ける。

「大切にして?」

 ふわりと儚い微笑みを浮かべて、夕凪が成瀬の拳をキュッと閉じ込める。

「この中の気持ち…守って……」

 成瀬には夕凪の言っている意味がすぐにはわからなかった。
 だが、祈るように包み込んで重ねられた夕凪の手をぼんやりと見つめていると、不思議と荒立った怒りが凪いでいくような気がした。

「それを俺が守るから」

 成瀬が閉じ込めた怒りと屈辱が拳の隙間から零れてしまわないように、夕凪の手の平が包む。

「……そしたらワイの手も貸しますわ」

 そんな夕凪の手に覆い被せるように豪樹の手の平も重なった。

「……何ですか?」
「オマジナイですわ。せやから成瀬先生もそんな険しい顔せんと力抜いて下さい」
「オマジナイ……? ふっ…あはは、ありがとう鷹森くん、鳳流先生」

 急にくすぐったい気持ちになり、成瀬は肩を揺らして笑った。

「鳳流先生はともかく、喧嘩っ早い君に止められるとはね」

 恨めしそうに夕凪に目を細めると、成瀬は重ねられた二人の手を静かに払い、眼鏡の位置を正した。
 そして侮蔑の眼差しで見下ろす吹雪に不敵な笑みを返す。

「若田部医院は飛沫高の創立と共にあります。思い入れがないわけないでしょう」

 成瀬の父親はその先代からずっと続く病院の院長だった。
 飛沫高の創設者とは親しい仲で、若田部医院は飛沫高の担当医として折々の検診に携わってきた。特に成瀬の父と飛沫高の現校長は兄弟のように育ってきた親しい仲で、成瀬も現校長には親しみを持って接している。
 だからこそ成瀬の父である若田部院長は寺杣総合病院の勢力に経営権を奪われてしまった時も、飛沫高との繋がりだけは失わないように駆けずり回った。
 しかしながら、無念の選択肢を選ばなくてはならない結果に陥ってしまい、結果として成瀬は医者の道を諦め、養護教諭としてこの学校との繋がりを守ることを決めたのだ。

「君が大人しく私の許に来ていれば、若田部の姓を失うことも志を変えることもなかっただろうに」
「もしそうしていたら、僕には何も残っていなかったでしょうね。でも今は違う。お陰で楽しい友人ができましたから」

 そう言って成瀬が夕凪にウインクをする。
 それを受けて夕凪は満更でもなさそうに笑った。度を超したセクハラさえなければ、成瀬は理解のある先生だ。

「それに、僕は抱かれるのは趣味じゃない」

 だが続いた成瀬らしい文句に、夕凪が顔を顰めたのもまた事実。本当の仲良しはもう少し先の話かもしれない。

「それよりもそちらの方、かなり顔色が悪いですよ? 早くご自分の病院に連れて行かれてはどうです?」

 成瀬が指した先。そこには顔面蒼白の白雪が今にも倒れそうに立っていた。

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「白雪!」

 それまで決して余裕の表情を崩さなかった吹雪が突然血相を変え、あの冷静さが嘘のように狼狽え始めた。

「すぐに車を……」

 状況を察し、山吹が即座に踵を返した。

「白雪、大変だ……ああ白雪」

 白雪の蒼白が移ったように青褪め、吹雪が頭を抱える。

「兄さん、……早く帰りましょう」
「ああ、わかった。帰ろう、白雪」

 そして白雪の背中を支え、階下に向かって来た道を戻り始めた。

「あの…、」

 そんな二人を夕凪が呼び止めた。顔色の悪い白雪を見て心配せずにはいられなかったのだ。掛け寄り、白雪の様子を窺う。

「大丈夫ですか…?」
「君がコレの心配などするな!」
「……えっ、」
「勝手にコレに話し掛けるな!」

 冷たい、今までで一番殺気の籠った目だった。

「ゆう君!」

 白雪を追いかけた夕凪のすぐ後を走ってきた豪樹が階段の踊り場に立つ夕凪を引き寄せて抱きしめた。

「ゆう君、何しとん。具合悪いのはゆう君も同じやねんから保健室で休み」

 子供を窘めるように力強く抱きしめ、夕凪を説得する豪樹。

「待って豪くん、あの人と話したいんだ」
「あの人はあかん、言うこと聞いて? な? 頼むわ、ゆう君」

 吹雪のところへ行こうとする夕凪の頭を撫で、豪樹は優しく言い聞かせる。

「兄さん…お願い、帰りたい」
「わかったよ、白雪」

 細く息を吐き出す白雪に何度も頷き、吹雪は階上にいる夕凪を見つめた。そして何か思いつめたように表情を凍らせ、スッと白雪から離れる。

「兄さん……?」

 驚く白雪を背に、吹雪は足音もなく階段を上り詰めた。そして夕凪を抱きしめる豪樹の肩を押し退け、強引に夕凪を引き寄せた。

「……えっ、」

 乱暴に手を引かれ、夕凪は困惑の表情で吹雪を見上げた。

「私の目の前で他の男の手を握ったと思ったら、今度は別の男に抱かれている……困った恋人だねえ」

 パシン――…‥

 痛々しいほどの音が静けさの中に木霊した。
 夕凪が大きくよろけ、白い頬に赤が浮かぶ。

「ゆう君!」

 吹雪の平手に打たれた夕凪がふらりと壁にぶつかり、もたれ掛かった。
 豪樹が慌てて駆け寄る。

「何するんですか!」
「彼は私の恋人だ。彼をどうしようと私の勝手だろう」
「何やと!?」
「豪くんヤメて!」

 逆上して吹雪に殴りかかろうとした豪樹に飛びつき、夕凪がその暴行を止めた。
 だが、吹雪の体がふらりと傾く。鈍い音とともに……

 呆然と立ち尽くす夕凪と豪樹の前で、吹雪が床に膝を付いた。その前で肩を上下させて拳を握りしめるのは……


「……白雪?」

 吹雪が目を瞠って見上げる。


「彼には手を出すな…!」

18ページへ***



「お願いっ、豪くん……今日は家に帰りたい!」
「何言うとん。せやかて家には誰も居らんやろ。今夜はワイが一緒に居ったる。明日は学校まで送ってったるさかい、な?」

 夕凪を自宅へ連れて帰ってきた豪樹は、すっかり困り果ててしまった。夕凪が家に帰りたいと頑なにせがみ続けているからだ。

 朝の一件があった後、あの白雪という男の顔色の悪さを移したように、夕凪も突然血の気を失い、意識を手放してしまったのだ。
 保健室で休ませていたが、白い肌にうっすらと浮かんだ目の下の隈から、夕凪がここ数日間まともに眠れていないことを知った。その理由を推し量ることはできなかったが、眠っている間も夕凪はずっと苦痛に顔を歪め魘されていた。そして放課後まで一度も目を覚まさないまま、ようやく気がついた夕凪は息を詰まらせたように泣き始めたのだ。
 理由を問うどころか、銀嶺の彼らと何があったのか探ることすらできなかった。

 どうしよう……
 そう繰り返す夕凪に、豪樹や成瀬の声など届いていないようだった。

 そんな夕凪を独りにするわけにはいかず、豪樹は夕凪を自分の部屋に連れて帰ることにした。
 ところが、夕凪は日が落ちると急に落ち着かない様子でソワソワし始めた。まるで何かの時間に追われているように。

「帰らなきゃ!」

 そう言って家に帰りたがるのだ。家に何かがあるのだろうか。

「理由は何なん? ガス? テレビ? 洗濯物? そしたらワイが後で見に行ってきたる。だから、な、大人しく寝とって」
「豪くん、お願い…っ、」

 どんなに豪樹が理由を訊いても、夕凪はただ帰りたいと涙を零すだけ。

「ゆう君はきっと疲れてんねん、せやからゆっくり休みぃ」
「豪くん、お願い、帰りたい」
「あかん。今日だけは甘やかされへんよ。ゆう君こそ大人しくワイの言うこと聞いてくれ」

 夕凪の両頬を包み、溢れる涙を拭った。
 すると夕凪は一度くしゃりと顔を歪めたあと、ウッと息を飲み込んだ。そして出かかった言葉を抑え込むように何度か頷いた。

「ええ子。今日は寝や?」

 大人しくなった夕凪にホッとした豪樹がにっこりと微笑むと、夕凪もそれに応えるようにふわりと笑う。それはまるで鏡写しのようだった。
 豪樹に頭を撫でられ、猫のように目を細める夕凪。

「ゴメンね、豪くん…」

 夕凪は豪樹に抱きつくように手を伸ばし、その胸に顔を埋めた。

「ゴメンね、豪くん。心配かけてゴメンね……。俺、悪い子でゴメンね……」
「何言うてん? ゆう君は悪い子なんかやない。ワイがよう一番知っとる」

 優しい豪樹の声音に夕凪の胸がチクリと痛んだ。

 違うよ、豪くん……俺は悪い子だ。

 心で何度もそう吐き捨てたが、夕凪はそれ以上口にはしなかった。豪樹とそんな押し問答を繰り返したところで埒があかないのはわかりきっていたことだからだ。だから聞き分けの良い子に徹するのだ。
 豪樹が安心してくれるように、豪樹を煩わせないように……

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「ほな、ワイのベッド使い。ゆう君が寝るまで隣に居ったるから」

 豪樹のベッドに寝かせられ、柔らかい布団が夕凪の体を包む。
 子供のように布団の端を両手で掴むと、夕凪は豪樹の顔色を窺うようにじっと見つめ、口元だけを布団で隠した。

「ありがとう…」

 そして小さな声でポツリと告げる。

「ええよ。そん代わりゆう君が寝付いた後でこっそり添い寝したんねん」

 夕凪の前髪を掻き上げておでこにキスをすると、豪樹は悪戯っぽい笑みでニッと笑った。

「ええー、ベッドが狭くなっちゃう」
「そんためのダブルや」
「じゃあ豪くん、俺が早く眠れるようにヒツジ数えてくれる?」

 昔から眠れない夜はこうして誰かにヒツジを数えてもらっていた。

「ゆう君……前から思っててんけど、ヒツジは自分で数えんねんで?」
「豪くんの声がいい。豪くんの声聞きながら眠りたい」

 誰かの声が聞こえる場所で、安心感に包まれながら眠りたい。

「数えて?」

 ねだるように夕凪に見つめられては、豪樹は従うよりない。もともと断る気もなかったのだ。豪樹は子供を寝かしつけるようにヒツジを数え始めた。

 しばらくしてヒツジの数に合わせて小さな寝息が聞こえてきた。数える声が止んでもその寝息が乱れることはない。

「目ェ覚めたら理由話してな? ワイはゆう君の味方やから……」

 豪樹は穏やかな寝顔にもう一度唇を落とした。

 夕凪はいったい何を抱えて、何に怯えているんだろう。その闇を一緒に見ることはできないのだろうか。
 こんなにも、夕凪だけを見てきたのに……


 暖色の間接照明が明かりを弱めて一筋の光が差し込んだ後、室内はパタン…と闇と静けさの中に落ちた。

―――、パタン。

 奥の部屋でまたひとつドアが閉まる音。豪樹が風呂に入ったのだろうか。
 しばらくして聞こえてきたシャワーの音に、夕凪はゆっくりと瞼を開けた。











 あとは何をどうやってここまで来たのかわからない。
 夕凪はとにかく鞄だけを引っ掛け、外に飛び出した。走って、走って、家を目指した。
 途中、誰かに声を掛けられたかもしれない。それでもひたすら走り続けた。タクシーに乗ったかもしれない。ちょうど最終バスに乗れたのかもしれない。詳しいことは何も覚えていない。
 ただ頭を占めるのはたった一人のことだけ。
 ずっと気になって仕方がなかったのだ。倒れてしまいそうなほど顔色の悪かった白雪という男のことが。

 あの人は大丈夫なんだろうか……
 彼は何故夕凪を助けてくれたのだろう。
 夕凪を助けてくれたあと、突然電池の切れた人形のように大人しくなってしまったあの人は、ただ静かに吹雪に連れて行かれてしまった。
 あの人は無事だったのだろうか。
 冷酷な雪のような男に、心まで凍らされていないだろうか。魂を抜かれてしまってはいないだろうか。

 気になって仕方がないのは、夕凪の知る“彼”とは似ても似つかない彼をどうしても重ねてしまうからだ。あの漆黒の怪盗に。
 だからリオンの顔を見ればただそれだけで安心できそうな気がした。

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 あの人がリオンとは関係ないのならそれでいい。ただ声が聞きたい。一目だけでも無事だと確認したい。
 震えていた彼を抱きしめてあげたい。

 もしかしたら彼は待っているかもしれない。

 “僕がレディを守るから、レディが僕を守って……”

 その言葉を信じて、あの部屋できっと待っているはずだ。
 だから何としても家に帰らなければいけないと思った。

 俺は無事だよ。あんたは?

 家の鍵を開け、電気も点けずに階段を駆け上がった。









「リオンッ…!」

 バタンと扉が勢いよく音を上げた。だがそれに返る音はない。

「……まだ来てないの?」

 来たのならバラの花があるはず。だがそれもない。

「……来てくれるんでしょ?」

 答えのない部屋に問い掛けた。


「会いたいよぉ…ッ!」

 ガクンと膝が床に崩れ落ちた。力が入らない。

「何で来てくれないのッ!!」

 真っ暗な音のない部屋にドサリと膝をついた。

「あんた俺のストーカーだろ?」

 消えそうな声がぽつりと零れる。

「ずっと傍にいてくれるんだろ?」

 いつもみたいに、馬鹿みたいに歯の浮くようなセリフを並べて安心させて欲しい。
 レディ…、そう呼ぶ声を何度も心の中でなぞった。そうすればすぐにでも聞こえてきそうな気がして……

「お願い…、独りにしないで……っ」

 だが答えは沈黙。
 押し殺すこともできない自分の泣き声だけが、ぽつんと佇む夕凪に寄り添っていた。

「うわああぁ…っ、」

 その孤独に堪えきれず子供のように泣き崩れた。
 大声で泣き叫ぶことでしか助けを呼べない赤ん坊のように、体の内側から込み上げる全ての感情を吐き出した。

「会いたいよぉ…、会いたいッ!」


 パッ…

 水泡ほどの僅かな音が弾け、暗かった部屋に明かりが灯った。夕凪はビクッと肩を揺らし、恐る恐る振り返った。

 ……リオン?



「……豪、…くん」

 だが、そこに立っていたのは漆黒の怪盗ではなく、肩ほどに伸びた黒髪を滴らせた豪樹だった。
 恐らく夕凪が家を飛び出したことに気付き、慌てて追ってきたのだろう。吐く息は白く、濡れたままの髪は上着の肩をじっとりと湿らせていた。

「……ほんまに、何しとん? なあ、ゆう君!」

 普段飄々として感情を表に出さない豪樹が声を荒げるほどに激昂している。それほど夕凪の身を案じて気が気ではなかったのだろう。

「何でこんな真似するん? ワイがどんだけ焦ったかわからん?」

 幼い子供に言い聞かせるように、豪樹は丁寧に言葉を紡いだ。

「ここに来て何がしたかったん? ……何で…、何で一人で泣いてんのん?」

 言葉に詰まる夕凪を優しく抱き寄せた。壊れそうなものを、大事に守ろうとするみたいに。

「誰かに会えるん? 待ってたらその人は来るん?」

 会えるか? 待ってたら来るか?

 何度も夕凪が自問自答した問い掛けだ。
 それでも僅かな希望にかけて待つことでしか、不安を拭い去る術が見つからなかったのだ。

「誰が来るん? 誰に会いたいん? それはワイにも言えないことなん?」

 繰り返される問い掛け。その答えは、夕凪が決して口にしてはいけない人物だった。

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「……ワイじゃあかん?」
「…え?」
「ワイやったらあかんのん?」

 抱きしめる豪樹の腕が一層夕凪を引き寄せた。

「ずっと一緒に居ったやんか。ゆう君の悩み聞いとったやんか……せやのに、そんなワイにも話されへんの?」

 話せない……、夕凪はこくんと一度だけ頷いた。

「……大事な…人、なん?」

 途切れ途切れの言葉は豪樹がそれを口にするのをどれだけ戸惑ったかが伺える。答えを恐れる問い掛けだった。
 無言で俯いたままの夕凪が出す答えに耐え切れず、先に声を上げたのは豪樹だった。

「好きやってん、ゆう君」

 腕の中で震えた体にもう一度同じ言葉を繰り返す。

「好きやってん、ずっと…」
「……豪、くん?」

 夕凪が驚くのも無理はない。
 ずっと隠してきた気持ちだ。よき兄として夕凪を守るために抑えてきた気持ち。
 いつだって真っ直ぐに伝えられなかった。豪樹の向ける愛情を身内に向けるそれだと疑いもしなかった夕凪に、その関係を揺るがすような発言は言えなかった。
 何度も零れてしまいそうになった気持ちを「冗談や」「からかっただけやん」そんな軽薄な言葉に隠して耐えてきたのに……ここへ来て気持ちの留め具が外れてしまった。あとは溢れ出す気持ちに手の出しようもなく、ただ流れに身を任せるように豪樹は言葉を続けた。

「もうあかん…、止められへんねん。ずっとゆう君のこと想ってきたんや。従兄弟としてちゃう……愛しててん…、恋人になりたいって、そういう気持ちで居ってん」

 恋人……、はっきりとそう言われて夕凪の心臓がツキリと痛んだ。
 夕凪も豪樹のことは大好きだった。尊敬もしていたし頼りにもしていた。“愛してる”という言葉を使っていいのなら間違いなく愛している。
 だが違ったのだ。これまで兄のように温かく見守り支えてきてくれた豪樹の愛情と、夕凪が抱いていた親愛の念とでは全く性質が異なる。豪樹のそれはリオンや竜太が自分に向ける感情と同じモノであり、決して簡単に口にできない“愛してる”。

 途端に息苦しさが襲った。胸が焼けそうなほど熱い。
 向けられた気持ちの重大さを知り、怖くなってしまった。
 リオンや竜太がその気持ちを抱いてどれほど苦しんだかを目の当たりにしてきたからだ。
 もしかして、自分はこの大切な従兄弟までも苦しめてきたのではないだろうか。それほどに強い愛情を受ける資格を自分が持っているはずがないのに……
 申し訳なく、苦しかった。

 だけどもしかしたら、いつもの冗談かもしれない。いつもは夕凪が困った顔をすれば、豪樹がヘラリとした笑顔を浮かべで「冗談や」と笑い飛ばしてくれた。夕凪を不安にさせるようなことはしなかった。だから……
 夕凪は押し潰されそうな気持ちに言い訳をつけ、豪樹を見上げた。
 いつものように、笑い飛ばして?

「冗談ちゃうんよ、」

 縋るようにうるんと瞳を揺らした夕凪以上に豪樹が苦しそうな顔で夕凪を見つめていた。

 本気なんだ、
 豪樹の誠実な気持ちが痛いほどに胸を打った。

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 ああ、自分はこの人にまで辛そうな顔をさせてしまった……

「豪くん…、ごめんなさい……」
「それはどっちのゴメン? ワイの気持ちに応えられへんて意味のゴメン? それとも、ワイの気持ちに気付かんかってゴメン…ちゅう意味?」
「……両方、」

 今まで気付かずに辛い思いをさせてしまってごめんなさい。
 そしてきっと、その気持ちに応えることはできそうにない。

「なあ、ゆう君。ゆう君のその胸ん中に居る人……ワイに置き換えてくれへん?」
「……え?」
「誰か居んねやろ? ワイの知らん誰かが……」

 確証はなかったが、夕凪を見ていればわかった。
 これはもう心の中に……

「せやけどなあ、ゆう君。ワイやったらずっと傍に居れる。ゆう君の痛みも知っとるし、この先もずっと一緒に居れる。こんな風に、ゆう君のこと泣かせたりせえへん」

 夕凪が会いたいと言えばすぐに会える距離に居る。今まで通りいつだって力になれる。支えになれる。

「ゆう君が望むこと、ワイなら叶えてあげられる。独りぼっちには絶対にさせへん」

 辰弥の事件で深く傷付いた夕凪を大阪に呼び寄せ、癒してくれたのは他ならぬ豪樹だった。冗談で夕凪を笑わせ、支えてくれたのも、眠れない夜にヒツジを数え、話し相手になってくれたのも豪樹。
 夕凪の一番孤独で弱い部分を支えてくれていたのは他の誰でもない豪樹だったのだ。

「ゆう君の心ん中に居るヤツが、もしもワイやったら……ゆう君はずっと笑っていられる」

 豪樹だったら……
 きっとこのまま楽しい時間が続いていくはず。こんな風に不安に思ったり、会えない時間に恐怖することもなくなる。

「ワイは浮気もせえへん」

 にこり。いつもの豪樹の笑顔が綻んだ。

「こぉんなエエ男がここに居んねんで?」

 口調こそいつもの冗談めいた豪樹だったが、切なげに寄せられた眉間のシワが彼の苦しい胸の内を真摯に伝える。

「そろそろワイを男として見てくれへんかな?」

 少しは意識してもらえないだろうか。長い間踏み出せなかった関係を前進させられないだろうか。

「ゆっくりでエエねん。ただ、ワイのことを少しでも……」
「豪くん…」

 言葉を遮る夕凪の呼びかけに、一瞬豪樹の瞳が怯えた。

 ゆっくりでいい。豪樹は答えを急かさなかった。
 ではゆっくり考えればその想いに応えることができるのだろうか。

『レディ…』

 こんなにも、他の男の声でザワついている胸が安らぐことはあるのだろうか。
 はっきりとその答えが目に見えてしまった夕凪に、豪樹の気持ちを適当にはぐらかすことはできなかった。

「豪くん…、ごめん」

 判然と豪樹の耳に届いた夕凪の答え。
 その言葉が…、その決断をする夕凪の反応が怖くてずっと胸に仕舞ってきた豪樹の想いは、ポロッと零れ落ちた夕凪の涙とともに、幕を下ろした。

「そんなに好きなん……? ソイツのこと」
「……うん」
「そっか。……好きな人、できたんやな」
「うんっ、」

 いざ夕凪の口から好きな人を肯定されると、思いの外胸がスッと軽くなった。

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「しっかし、誰やねんソイツ。知らん間にゆう君持ってかれてもうた」

 だが悔しさが拭いきれないのもまた確か。

「チューしてエエ?」
「えっ、何で!」
「最後にエエ思い出作りたいねん」
「最後って…、だって豪くんとはこれからも思い出作れるでしょ? 違うの? もう話もしてくれないの? 俺とはもう一緒に居てくれないの?」

 真っ赤な双眸に大粒の涙を浮かべる夕凪。
 豪樹は困った笑顔で夕凪の目元を拭った。

「それはズルいわ……、そんなん言われたら何もでけへんやんか……」

 夕凪を独りにすることも置いていくことも、絶対にできそうにない。惚れた弱みでもあり、自分を兄として慕ってくれた夕凪への愛情の形でもある。

「せやけど…」

 ドサッ…、
 夕凪の背中が床に倒され、動揺する双眸に天井が映った。

「何もせえへんなんて思うなよ?」

 ニヤリと豪樹が笑い、夕凪の上に馬乗りに跨った。

「豪くんっ!」

 ゆっくりと近づいてくる豪樹の顔。

「ちょっ、…豪くんっ!」

 豪樹の視線がしっかりと夕凪の唇を認めているのがわかり、夕凪は顔を赤くして慌てた。

「やだ…、」

 戸惑いが隠せない。

「豪くん…、……俺、」

 確かな意図を持って近づいてくる唇から逃れようと、夕凪は顔を横に背けた。

「好きな人が…いるから……」
「……。」
「キスは…だめ……」
「……。」

 言ってしまったものの気まずくて豪樹の様子を窺えば、キョトンとした顔で夕凪を見下ろしていた。

「ハハッ、生意気。ええよ、奪ったるもん!」

 不敵な笑みで一笑し、豪樹の顔がまた近づいてくる。
 逃げ切れるわけもなく夕凪がギュッと目を瞑ると、

「フ…ッ」

 唇にフッと息が吹き掛けられた。
 何が起こったのかと目を開ければ、未だ至近距離に豪樹の顔。眼鏡の奥の瞳が雄の光を宿して滾っている。
 今度こそキスをされると思い再び目を瞑れば、またフッと息を吹き掛けられる。今度は目蓋に。
 ビクッと体を震わせて目を開ければ、豪樹が楽しそうな顔で見下ろしている。
 またキスをされそうになり目を瞑れば、フッと息が顔に当たる。
 そんなことを何度繰り返しただろう。

「……豪くん、俺で遊んでる?」

 そんな疑念が浮かんでも無理はない。むしろ遅すぎたくらいだ。

「あはは、バレた?」
「もぉっ!」

 焦って損した。
 夕凪がムッと目を細めると、豪樹はまたヘラリと笑った。

「ごめんな、ゆう君」
「もういいよ、豪くん。だから退い……」
「今だけ見逃して…?」
「……っんん!」

 覆い被さる豪樹を退けて起き上がろうとした夕凪を押し戻し、今度こそ深い口付けを重ねる。

 今だけ…、この止まらない気持ちだけ見逃して……











「そしたら今日は客間に泊まらせてもらうから、何かあったら呼びや?」

 夕凪をベッドに寝かせ、豪樹は彼の髪を撫でた。

「ここにワイは居らん方がエエんやろ?」

 夕凪が待つ人がこの部屋に来るなら。

「ありがとう、豪くん」
「いつか紹介してもらえるん?」
「あはは…、どうだろ。」
「なんや悔しいわ。紹介してくれるまで認めへんからな」

 まだ、諦めへんよ。

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 薄暗い部屋に灯るのは地獄の館のように揺らめく蝋燭の明かり。
 重たいカーテンによって光を遮断されたその部屋で彼は鎖に繋がれていた。
 壁に埋め込まれた十字架に咎人のように両腕を括られ、苦痛に顔を歪める彼は、身に纏うモノは何もなく、生まれたままの姿で浅い呼吸を繰り返す。

 何時間そうしているのか、時間の感覚はもうない。
 ただハッキリしているのは白い悪魔を怒らせてしまったこと。
 その度にこうしたお仕置きを受けるのが体に染み付いてしまい、辛いとさえ思わなくなってしまった。



「坊ちゃま……」

 薄らぐ意識の縁で、控えめな声が呼ぶ。

「水をお持ちしました」

 そういえば喉がカラカラだ。
 僅かに口を開けば、細いストローが唇に触れる。か細い呼吸を繰り返すその状態ではストローを吸い上げることで精一杯だったが、おかげで喉が潤うと、次第に意識もはっきりしてきた。

「……あの人は?」
「旦那様なら今日は理事会の方と会食があるそうで、出掛けられました」
「そうか」

 それを聞いてホッと安堵の息が洩れる。

「もう行っていいよ、山吹。少し眠りたい」

 そう言って彼は目を閉じた。
 十字架に張り付けられ、一糸纏わぬ姿で鎖に繋がれていようと、気分は落ち着いたものだった。こんな状況でも眠れるのだ。
 少し眠って、体力を回復しておかなければ……

 目を閉じれば浮かぶ愛しい人――――…‥

 早く会いたい、それだけを考えていた。






「ねえ山吹、」
「何でしょう?」

 部屋を出て行こうとした山吹を呼び止め、彼はゆっくりと顔を上げた。

「アレは届けてくれた?」
「はい、昨晩のうちに」
「そう。ありがとう」

 またひとつ、安堵の息が零れる。

「心配していないといいな」

 彼は泣き虫だから、その愛の証がなければ不安できっと泣いてしまう。

―――僕は無事だよ。
―――君を愛しているよ。
―――いつでも君の傍にいるよ。

―――ホラ、今日も来たよ。


 その証の赤いバラ。


「ねえ山吹、」

 どうして“僕”に気付いてしまったのだろう……


 彼も、あの人も――――…‥




「レディを守らなきゃ」





---TARGET7の(1)終わり

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『Target*Boy』の折り返しをちょっと過ぎたあたりです。
まだまだ続きますが、これ以上掲載すると新着欄をジャックしそうなので、個人サイトへのリンクを載せました。
個人サイトは今年の7月に閉鎖の予定なので、こちらの『Target*Boy』もその頃に削除する予定です。移転等の予定はありません。
11年以上書き続けてきて最近完結したばかりの思い入れのある作品なので、最後まで読んで頂けたら嬉しいです。

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